This site is an archive of ama.ne.jp.

虹色ひよこ飼育日記

虹色ひよこの発生が確認されたのは、梅雨入り前の晴れの特異日である六月一日のことである。これはSNSで初めて虹色ひよこの動画がアップロードされた数日前にあたるが、投稿を元にした学内新聞サークルの取材によって大々的にこの日付が発生日として喧伝されたのだ。今日も昨日も「虹色 ひよこ」あるいは「ひよこ 七色」でヒットする写真や動画が何枚も投稿されている。

虹色ひよことは、虹色のカラーひよこである。虹色というと、カネイ化成あたりの発色のよいフルカラー染料にLからNまで一色ずつ浸したストライプパターンを思い浮かべるかもしれないが、その想像は少し違う。噂の虹色ひよこは、ジルコニウムの薄膜干渉のような構造色を示すのである。つまり、幼児向け絵本の挿絵に使われるような空間的減法混合ではなく、視点や光の変化によって色を変える時間方向への加法混合といえる。

……と、単に言葉を並べ立てても説明できるものではないので、先に検索キーワードをコピーして実際に投稿を見ておくか、Chrysochroaで飾り付けたオブジワの工芸品のようなひよこの姿を想像すると早いだろう。

帰宅前に学生支援室の前を通りかかって足を止めたリッカは、虹色ひよこを持っていないどころか、今の今まで虹色ひよこの存在さえ知らなかった貴重な存在の一人である。入り口のガラス扉の横には「虹色ひよこ ご自由にどうぞ」という手書きと掲示が貼られたコピー用紙の空き箱が置かれており、その中で虹色の金属光沢を放つ数羽のひよこが時折ぴよぴよと鳴きながら歩き回っていたのだ。

リッカは普段あまり使わないSNSアプリを開いて、虹色ひよこについて前述のようなことを調べ上げてから、最終的に満足そうな顔でそのうちの一匹を紙袋に詰めて持ち帰っていった。まるで縁日ではしゃぐ子供の姿のようである。その様子を支援室の中から退勤直前の事務職員が見ていたようだが、特に気に留める様子もなく残業前のタイムカードを打刻した。

さて、カラーひよこ、と聞いて眉をひそめたのはあなただけではない。SNSには目の前の娯楽を無批判に楽しめるユーザーだけではなく、こうした存在を動物虐待や不正搾取の兆候に結びつけて糾弾し、インプレッションを換金するための長蛇の列に並ぶアカウントも同じくらい……いや、むしろ多いかもしれない。虹色ひよこの愛くるしい動画の投稿には、いつも壊れた日本語のリプライがぶらさがっていた。

実は、リッカとルームシェアするメイもその一人である。

「ちょっと、リッカ。テーブルに置いてある虹色ひよこ、あなたが買ってきたの?」

メイはこうしてリッカの部屋のドアをノックもせずに開ける癖があったが、リッカは特に気にしていないようだ。隣にあるメイの部屋に「配信中 絶対開けるな」と「開ける前にノック!」の両面式ルームプレートがかけられているのとは対照的である。

「あー、あれね。学生支援室の前で配ってたからもらってきたの。今SNSで人気なんだって」

「知ってるわよ。昨日、虹色ひよこと社会問題を絡めてバズったばかりだもの。とにかく、私これから配信の予定なんだからどこかへやってよ」

メイはSNSで完全菜食主義や動物愛護(ヴィーガニズム)を訴えるVTuber「水野ナオ」として活躍していて、最近は陰謀論にも片足を突っ込んでいる節がある。配信ではLive2Dのモデルと共に実写の手元を映すのがお決まりで、資料を出したり料理を紹介したりするのに使われていた。

彼女たちが住む物件は周囲からの音漏れが気になるほど壁が薄いわけではなかったが、室内用の木製ドア一枚で区切られた共用のダイニングキッチンで動物の喧しい鳴き声が響けば、やはり誤魔化しようがないだろう。

「いっそのこと、新しい家族ですって紹介したら? 野菜くずで育ってゴミも減らせるみたいだから、メイの……なんだっけ、SDGsキャラにも合うんじゃない?」

「だから、私のはヴィーガンだってば! 昨日バズったばっかりなのに、実はひよこを飼ってましたなんてバレたら炎上じゃ済まないわよ」

「でも、キャラでしょ? エシカル・ビーガン・キャラ」

あっけらかんとそう言い放つリッカに、メイが反論できるはずもない。水野ナオはヴィーガンとして作られたキャラクターだが、彼女に声を当て、動きを与えているメイの実態は全くそうではなかった。今日だって、リッカがスーパーで掘り出してきた割引の牛ポンドステーキ肉をどう食べようかと考えすぎて、帰り道で普段使わないエーワンソースの240gビンを購入していたくらいだ。

いつもなら「うん、お肉大好き!」と開き直って受け流すメイだったが、今は配信前の緊張や忙しさで余裕がないらしく、真っ赤な顔で強引にリッカの手を引くと、虹色ひよこが駆け回る箱を持たせて玄関の方へ追いやった。

「うっさい! とにかく出てけ!」

「待ってよ……今ポムポムパズルしてたのに」

「いや、何年前のゲームよ……あーもう! ピヨピヨうるさいわね。虹色ひよこは鳴かないように遺伝子操作されてるんじゃなかった? ほんと、インターネットって嘘ばっかり!」


それから数十分後。

「あら、リッカ。ひよこだけ外に置いて戻ってくればよかったのに」

「あ、メイ。配信お疲れさま。見てほら、一億円突破したの」

「いや、三年くらい前に散々いろんな配信で見たわよ……

配信を終えたメイが玄関を開けると、床に置かれたひよこの箱とその横にしゃがみ込むリッカの姿を見つけた。外はもう薄暗くて、まるで「うちじゃ飼えないから返してきなさい」とでも言われた子供が意地を張っているようにも見える。

巣箱を抱えてダイニングに戻ってきたリッカの顔は少し汗ばんではいたが、数十分前に浴びせられたメイの癇癪など意に介していない様子である。しかし、当のメイは少しばつの悪い心地がしていた。配信前で焦っていたからとはいえ、外に追い出すのはやりすぎだったかもしれない、と思ったのだ。

「リッカ、外暑かったでしょ? ごめんね」

「メイったら、顔真っ赤にして追い出すんだもん。出てけー!なんて……ふふっ、久しぶりに言われちゃった」

……あなた、もう少し怒った方がいいわよ」

「え、どゆこと?」

けらけらと笑うリッカの顔を見て、メイは安心するより先に自分の心配が無駄になったことに呆れていた。もちろん穏便に済んだならそれでいいはずだが、どうも多少の口論に持ち込む覚悟があったらしい。もっと怒っていい――SNSには感情を嫌というほど増幅して効率的に注目を集めるスキームが溢れているし、メイは自然とそういう「怒る」技術を実践しているところがあった。しかし、それはリッカには伝わるまい。

「いや、なんでもないわ。ステーキ、焼いてもらってもいい? ちょっと疲れちゃって」

「じゃあ、はい。できあがるまで可愛がってて。自宅で簡単ひよこセラピーね」

リッカはテーブルについたメイの前にひよこの巣箱を置いてから、手早くお気に入りのエプロンを結んでキッチンへ向かった。

夕食前のダイニングテーブルに滑り込んだ虹色ひよこの箱を見て、メイはこの前配信で紹介した海外の動物愛護団体のCMを思い出した。食卓に並んだ鉄板皿にミニチュアの動物が載せられて、まるで野蛮な踊り食いに供されるかのような演出だったのだ。メイはあまりに悪辣に描かれた家族の表情で思わず笑いそうになったのだが、視聴者は至って真面目にコメントを続けていた。

箱の中でひょこひょこと歩き回る虹色ひよこには、メイのそんな取り留めのない連想など伝わるまい。実際のところ、メイもSNSの写真越しにしか見たことのない不思議な生き物をまじまじと目で追っているうちに、例のプロパガンダCMのシーンなどすっかり忘れていた。

「案外可愛いわね、このひよこ」

虹色ひよことは、虹色のカラーひよこである。虹色というと――そう、ひよこが羽毛を揺らして動くたびに、あるいはメイが視線を動かすたびに、黄色い部分が紫色や緑色の輝きに変化するのだ。しかし、こんな不思議な色でも羽毛は一本一本柔らかく、愛らしい動きとふわふわした質感は何らひよこと変わらない。

メイはこの虹色ひよこを手で包み込みたいと思ったが、どう触ればいいのか分からず見つめることしかできない。メイはこれまで一度もペットを飼ったことがなかった。

「はーい、ひよこさん。おいしいニンジンだよ~」

すると、手際よく調理を進めていたリッカが、グラッセの余りとして出てきたニンジンの皮と切れ端を刻んで箱に放り込んだ。虹色ひよこは目の前の野菜くずをきちんと餌と認識したらしく、小さな皮の欠片からついばみ始めたので、リッカはうんうんと頷き満足げである。鶏に色の濃い野菜を与えると黄身の発色がよい卵を産むというが、しかしリッカはこの虹色ひよこの雌雄も知らずにいた。そもそも、虹色ひよこの卵に黄身と呼べる部位があるのかも、今は分からない。

メイは虹色ひよこがニンジンの切れ端をどんどん食べ進める様子をしばらく見つめていたが、突然何かに思い至ったようで、立ち上がってその目を大きく見開いた。そして、何を思ったかリッカが新しいニンジンを落とそうとする手を遮ってしまう。

「ちょ、ちょっと! 虹色ひよこは野菜なんか食べないわよ」

「え? 食べてるじゃん」

「食べても消化できないの! ほら、そんなの食べちゃダメ――い、痛っ!」

メイがうろたえた様子で箱の中から残りのニンジンを拾い上げようとしたが、目測を誤って空を掴む指をすかさずひよこのくちばしが襲う。貴重な餌を奪おうとした外敵の指には当然の仕打ちなのかもしれないが、一欠片も取り出せないまま悲鳴を上げて逃げ帰る姿は切ないものである。

「あのさ、じゃあ虹色ひよこは何を食べるの?」

……どのサイト読んでも、砂糖菓子か角砂糖しか食べないって書いてるわ。ほら」

「お砂糖しか食べないひよこなんて、聞いたことないよ」

リッカはメイが差し出したスマホの画面をろくに見もせず、そう返した。SNSにどっぷり浸かるメイにとっては疑うべくもない常識だとしても、リッカには検討する価値もない作り話である。

とはいえ、そもそも一ヶ月前なら存在そのものが作り話だった虹色ひよこが実際に目の前を駆け回ってるのだから、それが重度の甘党だったとしてもおかしくはないだろう。メイはそう思ったが、現に目の前でもりもり野菜を食べるひよこがいるのだから、個体差もあるのだろうと納得することにした。

仲直りに使いなよ、とリッカに渡された細長いニンジンの切れ端を差し出すと、虹色ひよこは何度か首を傾げてからその先端をついばんだ。数分前にメイが働いた無礼を許したのか、すっかり忘れたのかは分からないが、指先に伝わる感触から敵意は感じない。

「その子、なんて名前にしようか?」

「あら、ただのひよこに名前なんて付けるの? リッカに任せるわ」

ただのひよこ、なんてつれない態度をとっているが、メイは動物に手ずから餌を与える経験がほとんどなかったので、ニンジン越しに触れ合っただけの虹色ひよこに愛着を感じつつあった。そんなペットの名前を考えるなんて、メイにとっては初めての一大イベントのはずである。しかし、うるさいひよこと断じて一度追い出した手前、それをリッカに知られるのは少し恥ずかしくて言い出せなかったのだ。

「私が付けていいの? えーと、じゃあ……メリーね。今日からあなたは、メリーだよ」

リッカの声に答えるように「メリー」がぴよ、と短く鳴いた。メリーなんてひよこっぽくもない、むしろ羊に似合うような名前がするりと出てきたのを訝しんで、メイは首を傾げた。メリー……メ? リー……もしかして。

「メリー……それって、もしかして私たちの名前の頭文字を取ったの?」

「うん、そうだよ」

「いや、意味分かんないんだけど」

「私たちのペットだもん。いいでしょ? イッカ、メッカ、リイ、カメ……うん、やっぱり、メリーがいいよ」

メイのメに、リッカのリ。語呂がよくなるように少し伸ばして、メリー。由来を考えれば、まるで二人の間に生まれた娘に付けるような名前だが、リッカはこの部屋の新しい仲間によく似合うと本気で思っている。このひよこを選んだのも家まで連れてきたのもリッカの独断で、本来ならメイが名前を分ける道理などないはずだが、いつの間にか「私たち」のペットになっていた。

それでも、メイがひよこの愛くるしい動きに絆されない冷淡な心の持ち主なら、ペットなんて配信の邪魔だと反対し続けていただろうが、今はもう可愛いメリーを元の場所に返すことなど考えられない。それに、メイのセンスで思いつく安直な名前と比べれば、もはや「メリー」という名前さえ気に入り始めていた。

……まぁ、いいわ。でも、配信には絶対出さないからね」

「はいはい」


虹色ひよこがどれだけ美しい輝きを放つといっても、徐々に物珍しさが薄れて注目を集められなくなるのはSNSの常である。初めてその姿を現してから数週間が経ち、日常の一コマになりつつあった虹色ひよこは、面白い動きの猫や愛らしく駆け回る小動物のGIFアニメのような枠に収まってある種の定番と化していた。

水野ナオも、初めは虹色ひよこを通じて人間の残虐性や生物実験の恐ろしさを訴え続けていたが、インプレッションの伸びが明らかに鈍くなったので早々にそのトピックからは撤退していた。対するメイは、手ずからメリーに野菜くずを与えるのにすっかりハマっているが、結局まだ直接触れるには至らず巣箱の掃除はほぼリッカ任せになっていた。それでも、リッカがいない間は猫撫で声で話しかけたりして、二人の時間を楽しんでいる。

そんな虹色ひよこが持て囃されていたSNSの空気が変わったのは、六月二十八日の雨の日のことである。虹色ひよこの無害で安全な印象は、この日を境に大きく変わることになった。

その日作られたばかりの匿名アカウントから突然投稿されたのは、キッチンやリビング、あるいは誰かの部屋らしい場所を床から無造作に映した無音のショートクリップの羅列である。初めはAI作品の試験的なアートアカウントとして扱われていたようだが、徐々に投稿の傾向が変わっていく。食事中の姿、着替えの隠し撮り、カップルの口論、違法薬物の服用、執拗な虐待……そして、そこに登場しているのは、いずれも実在の人物であった。

突然SNSに私生活を公開された人の中には、知人からの指摘で、あるいは直接その投稿の存在を知るに至った人もいたようだ。フェイク動画だと言い張っているのはバレると困る状況を撮られた少数派だけで、多くのクリップはどうもかれらの家で実際に撮影されたものらしい。そして、程なくして全員の共通点が虹色ひよこを家に迎え入れたことだと分かったのだ。

発端となったアカウントはもう凍結されているが、プロフィールに書かれていたURLはいわゆる無防備なウェブカメラ(インセカム)のまとめサイトだった。これはパスワードがなかったり初期設定のままのウェブカメラをクロールし、注意喚起の意味も込めて一覧で公開しているサイトで、今回のアカウントとは運営者も目的も異なる。仮に投稿者をすぐに突き止めたとしても、このサイト自体は止めようがなかったのだ。そんな趣味の悪い覗きサイトに、床を歩き回る虹色ひよこの視点のライブ映像が大量に流れ込んだのが明らかになって、SNSはもう大騒ぎだった。

「ただいまー。……って、ちょっと、メイ! 何してるの」

「(しっ! 静かにして)」

焦燥した表情でメリーの巣箱にアルミホイルの切れ端を巻こうとしているメイも、そんな虹色ひよこの騒ぎに巻き込まれた一人である。

数週間で一回り成長したメリーが窮屈しないように、最初に使っていた段ボールの巣箱から衣装ケースに引っ越していたので、これをすっかり包むにはかなりの量が必要だろう。巣箱の周囲は八割ほどがホイルを巻かれてテープで留められているが、上部を覆うには足りなかったようで、上から新聞紙を被せるという応急処置で次の策を練っている状態だった。

「(いったいどうしたの?)」

濡れた折りたたみ傘を玄関に広げるリッカが、物々しい雰囲気のメイに合わせて小声でそう尋ねる。本当ならさっさとシャワーを浴びるつもりだったが、どうもそういうわけにもいかないらしい。

「(アルミホイルが欲しいの。ちょっと持ってきてくれない?)」

「(え、買い置きしてないよ。明日のセールで買う予定だったし)」

「なんでよ! それじゃ、電波が防げな――っ!」

思わずそう叫んでしまったメイが自分の口を押さえるが、もちろん出してしまった声は戻ってこない。もう彼女の肉声データはどこかに送られてしまっただろう。メイは得体の知れない隠しカメラの前で大きな声を出してしまったのを後悔しながら、改めてリッカにひそひそと話しかける。

「(実は、メリーが隠し撮り用のロボットだったみたいなのよ)」

「(どういうこと? ちゃんと説明してよ)」

「(もう……これ、一番わかりやすいまとめだから、今すぐ読んで)」

メイがリッカに「【トロイの木馬】虹色ひよこスパイ事件まとめ【随時更新】」と表示されたスマホを手渡す。リッカがまとめ記事を読んで状況を理解するまでの間、メイはこれからメリーをどうすればいいのかについて考えていた。

SNSには虹色ひよこを「分解」してその機械の身体を明らかにしているアカウントが何個もあったが、そのいずれもAIの自動評価で動物虐待の判定を受けてBANされてしまった。しかし、メリーはもうすっかりこの部屋の一員になっていたし、スパイロボットかもしれないというだけで巣箱をひっくり返し、あまつさえその皮を剥いで中身を検められるほど、メイは切り替えの早い人間ではない。

それでメイは、せめて自分たちのプライベートが送信されるのだけはどうにか止めるために、巣箱を手近な金属で覆ってメリーの電波を遮断しようとしていたのだ。アルミホイルのような金属箔できちんとした電波暗室を作るには少し工夫が必要なのだが、メイがインターネットから得られる範囲の知識では、頭にアルミホイルを効率よく巻き付けるためのモルニ巻きの手順しかヒットしなかった。

……じゃあつまり、メリーが外国から送り込まれた盗聴器ロボだって言いたいの? このひよこが? メリーが?」

「(さっきからそう言ってるじゃない。あと、声に気を付けて。まだ電波を防ぎ終わってないのよ)」

「お尻にネジは付いてたの?」

「えっ?」

メイが唐突な質問にまた大きな声で答えてしまう。リッカの言葉に気を取られたせいで、メリーに声が漏れていることはもう気にしていないようだった。

「だから、ロボットの証拠。みんなお尻にネジが付いてたって言ってるよ」

「見てないわよ。だって、まだ私……メリーに触ったこと、ないし……

虹色ひよこのお尻には金属の一分ネジが嵌まっていて、それを外すと身体がバラバラに分解できる、というのはメイが渡したまとめサイトにもしっかり記されていた。しかし、メイは騒動の初めに真偽の分からない噂を一通り読んだきり、続報は何も調べていなかったのだ。

わずかな情報で感情のままに躊躇なく突っ走るメイの性格は、ある意味水野ナオの人気を支える個性でもあったが、こうして無駄なアルミホイルに巻き込まれる当事者には迷惑なものである。

「じゃあ、見てみようよ。見たらすぐ分かるでしょ?」

そう告げたリッカが巣箱から新聞紙を剥がすと、メリーは思いがけない夜が来たと勘違いしていたのか、目を閉じてじっと隅に座り込んでいた。リッカはそんなメリーを器用に手で掬い上げて、さっとお尻の羽毛をかき分ける。

メイが触れようとするとピーピー騒いで暴れ出すのに、リッカにはまるで親鳥のように身体を任せているのは、どうにも不思議なものである。メイはメリーが盗聴器ロボだと思い込んでいたのも忘れて、リッカの手の上で眠る姿を呆然と目で追うことしかできなかった。

「ほら、やっぱりネジなんかないよ。それに、盗聴器ロボはずっとひよこのままで、こんな風に大きくならないんだって」

ロボットはふんもしないし、野菜も食べないの。そうメイに言い聞かせるリッカは、彼女がインターネットに振り回される姿にもはや呆れかえっているようで、当たり前にも思える一言一言を順番に噛み砕いてみせた。

「で、でも……いっぱい映像が流出してて……

「でも、うちのメリーはちゃんとひよこだよ。私たちの家族! メイ、ちゃんと記事は読んだの?」

「盗聴されてるって聞いて、慌てちゃってたかも……ごめん」

メイはそう答えると、見えない敵に立ち向かって張りつめていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったようで、その場にへたり込んでしまう。彼女は彼女なりに謎の巨悪に立ち向かっていたはずだが、あれこれ考えた戦略が徒労に終わった無力感と、空回りのまま突き進んだ恥ずかしさがごちゃごちゃになって、床を見つめるメイの目には涙が溜まっていた。

「じゃあ、新しいアルミホイル買ってきて」

……なんで、私が」

下を向いたままそう答えるメイは、声が震えるのを抑えられない。強気なメイが素直に謝るほど追いつめられたときは、いつもこうだ。メイ自身は泣きそうになっているのをどうにか隠し通したつもりだが、もちろんリッカにはその様子は筒抜けだった。

「無駄遣いした分。もちろん、メイの自腹だからね?」


あれからさらに数ヶ月。SNSをいろいろな意味で広く賑わせた虹色ひよこは、二度のブームを経てすっかり忘れ去られてしまった。多くのひよこは飼い主の手で分解されて廃棄されたが、一部の個体はそのまま外に捨てられて、ビルの物陰や公園の草むらの中から動画を配信し続けた。

しかし、もともと人の目を引くためだけに設計された虹色の身体は、自然界ではただの足かせである。野良猫や鳥のおもちゃとして弄ばれ、通行人に見つかれば足や傘の先で端に追いやられるしかない。元々飼い主に与えられていた砂糖菓子は体内の砂糖電池セルの燃料になっていたらしく、どうにか逃げ延びた個体も徐々に電池切れで力尽きる運命にあった。

こうして、覗きカメラ(インセカム)サイトに連日並んでいた虹色ひよこの配信も日に日に姿を減らし、誰が何のために送り込んだのかも解明されないまま、季節はいつの間にか夏を通り過ぎてもう秋も終わりかけている。

そんな悲惨な結末を辿ったひよこロボットたちとは反対に、メイとリッカと共に暮らすメリーは立派な雌鶏に成長していた。しかし、幼い頃に彼女の身体中を覆っていた虹色の羽毛は、今やごく平凡な白いふわふわした羽根に生え替わっている。成鳥になるまでは数日おきに何度換羽しても虹色の羽毛に生え替わっていたので、カラーひよこのように染料で着色されたわけではなかったようだが、大人になって魔法が解けてしまったらしい。

頭頂部の小さなとさかも鮮やかな赤色で美しいものの、やはりかつての珍奇な虹色ひよこの面影はなくなっている。雄鳥と違ってあまり大きな鳴き声も上げないので、すっかりメイとリッカの暮らしに馴染んでいた。

「結局、メリーってどういう生き物だったわけ?」

「だから、ひよこでしょ? ほかの子とちょっと色が違うだけの」

「でも、支援室の前にあったひよこって、勝手に置かれてたのよね。出所の分からない生き物って……まぁ、ちゃんと育ったからいいんだけど」

「そうそう。この前掲示板に『支援室では、六月に行われたひよこの配布には一切関与しておりません』って書いてあったから、びっくりしちゃった」

どうやらリッカは、その下に貼られていた理学部生物学科の学生数人に対する停学処分の告示は見逃していたようだ。とはいえ、もしその告示が目に入っていたとしても、処分理由の「カルタヘナ法違反で罰金以上の刑に処されたため」という内容を読んで、メリーに関係するものだと推理できるかは微妙なところである。

実は、この部屋でメリーを飼っているのが知られると二人も少々危ういのだが、メイもリッカもそのことは知る由もない。これほど見た目が凡庸な鶏になってしまった今では、もはやDNA同定検査にでも回さなければバレることはないだろう。メリーが虹色の卵でも産むようになったらまた話は変わるかもしれないが。

「虹色ひよこって、もうSNSで注目されてないんでしょ? そろそろメリーのことを紹介してもいいんじゃないかな」

「ダメよ。今は虹色ひよこを送り込んだ国について考察してるんだから。陰謀論ってすごいわね。ヴィーガンの盛り上がりと全然違うのよ」

「メイったら、懲りないね。いつかメリーに正体をバラされても知らないよ?」

「メリーがそんなことするわけないでしょ? ねぇ?」

そう呼びかけられたメリーが、タイミングよくココッと短い鳴き声を上げる。まるで「もちろんよ」とでも答えるようなその声を聞いて、二人は顔を見合わせて笑うのだった。