A子は病室にいる。吊るされて動かない両脚と、穏やかに晴れた秋の空を見ながら目覚めた。
目が覚めてから、一人でいる間はずっとB子のことを想っていた。B子が虚空を見つめてはらはらと、袖で目尻を拭うこともなく、静かに流していた涙の意味を考えていた。
お前は莫迦だと父親に言われた。母親はその横で女々しく泣いていた。何だってそんなにめそめそ泣いているのかと、そう訊くと母親は幾秒かの沈黙の後で、とうとう声を上げて泣き始めてしまった。その眼差しは困惑か、あるいは失望だったと思う。煩いのは嫌いなのに。泣きたいのは私とB子だ。
担任も教頭と一緒にやってきた。若い、意志の弱そうな男の担任は、面倒事が心底厭だというのが顔に出ている。かの担任は不真面目で成績も悪いA子を早々に切り捨てて、受け持つ前から成績優秀なB子に目を掛けていた。教頭にB子はどうなりましたと訊くと、ぽつりと一言亡くなったよと言うから、まぁそうだろうなと、訊く前から分かっていたような顔をした。
B子の両親は来なかった。母親は、私に気を遣って来ないのだと言う。母親はやつれていた。何も気にせずちゃんと寝たほうがいいと言おうと思ったが、また泣かれても困るのでやめた。
彼らが、A子さんの心身を鑑みて遠慮させていただきます、なんて尤もらしい理由を付けて彼らが来ない気なら、這ってでも殴られに行ってやりたい。B子が死んだのはお前のせいだ、そら、そら、何故不出来なお前だけ生き残ったのだ、と。その方が、自分が生きてると思えるから。いくら生きてる実感を与えられたって、そんなの何の役にも立たないけど。
A子はB子に餞の言葉を届けられないまま、とうとう一人で誕生日を迎えてしまった。彼女にはどうしてもそれが受け入れがたく、許せなかった。B子はケーキを買ってきてくれないし、蝋燭に火を点けてもくれない。私はB子の十六歳の誕生日をきちんと祝ったのに。B子は何をしてるんだろう。
あのテニスラケットはどうなっただろう。B子、元気かなぁ。
「元気も何も、死んじゃってるんだけどね、はは」
A子は誰もいない病室で一人せせら笑う。
天国があるならそれでいい。どちらにせよ、B子には会うのだ。私のことをずっと好きでいてくれるB子に。だから、もうこの世界に意味などなかった。
「B子。天国には、宿題がないといいね」
歩きながら、A子はおよそこんなことを言った。
A子がB子の手を引いて、車止めをすり抜けた。防寒具一つ身に付けない冬服姿の彼女たちは、突き刺さるような寒さを少しも感じさせない軽やかな歩みで天端を進んでいく。
「そうね、A子ちゃん。きっと、ないわ。大学受験もね」
天端は幅にして六メートルほどで、二人で並んで歩く分には何の不自由もない。もっとも、今から死のうとする私たちには、天国へ続く道の幅が何メートルあるかなんてどうでもよいのだ。
無機質なLEDの白い光を放つ街灯が、等間隔に並んで私たちを冷たい死へと導いていく。顔を見せたばかりの月は、抉られた半月の月明かりをダム湖の水面で静かに揺らしていた。この湖をぼんやり見ながら歩いていると、まるで橋を渡っている気分になる。そうすると、さしずめここは三途の川とでもいったところか。
よく冷えた水に、深く深く、手を繋いだまま沈んでいく。そんな終わりでもいいかもしれない。水の底には冷たい死があって、私たちはそこでキスをして永遠を誓い合うのだ。ずっと、ずっと身体が沈みゆく感覚に身を任せて。
暑い夏の日に、学校を抜け出してアイスを食べた。雄大な山の景色に囲まれて、ずっと一緒だよと、何度もキスをしたのを思い出す。A子のずっとと私のずっとは、いつの間にかすれ違っていた。それなら今こうやって、無理矢理にでもくっつけてしまえばいい。この狭間では何をしたっていいのだから。
「ぼーっとしてるね、B子? どうしたの?」
どどどどどどと、滝のような音が大きくなって私は我に返った。天端も中程まで来て、すぐそこで水が流れ落ちているのだ。
「私たち、ここで、キスしたわよね。夏の暑い日に」
A子はきょとんとしたような表情の後に、にやにやとして私にくるりと身体を向けた。スカートの裾がふわりと跳ねる。
「ふふっ。したいの? ……しよっか」
こくっ、と頷いてから、私たちは手を繋いだままキスをした。流水の騒音に任せて、二人は好きだと言い合った。脳に直接響く声がくらくらとした甘い刺激を作り出す。見つめ合うA子の舌は熱くって、私の舌が火傷しそうになる。
「二人とも処女のまま死ぬのって、なんかすごく興奮する。そうじゃない?」
変態みたいだなと思ったけど、私まで変態になるのは嫌だから、そうねと軽く返した。
それから、私たちはどちらからともなくローファーを脱ぎ、つま先を向こうにして丁寧に揃えた。そして静かに欄干へ上り、最後にさっきより固く手を繋ぐ。決まりきった儀式のようにして。安っぽい銀色の欄干はよく冷えていて、靴下を脱いでいたら引っ付いて離れなくなっていたところだ。
力を込めて赤くなった掌を包み込んでくれたA子の手は暖くて、それだけで顔まで熱くなりそうだった。
上から見る小さな発電所が汚い緑色に光っているのを見ながら、私はこの世界からの離脱を覚悟した。死という未知に恐怖、あるいは興奮しているのも相まって、B子の膝は少し震えていた。無骨な欄干は、もはや私たちがそこに立ち続けるには心許ない。
B子がA子の掌を強く握ると、彼女も冷たく汗ばんだ私の手を優しく握り返してくれる。A子はそれから、何も言わずに私の頬を撫でた。暖かかったけど、彼女の手は濡れていた。
「私たち、今から死ぬんだよ。泣いてちゃつまらないよ」
私は慌てて、ごめんなさい、と袖で目を拭う。何度か深呼吸をして、私は自分に言い聞かせるように声を出して頷いた。
「B子の死ぬとこ、見たかったな」
きっと綺麗なんだろうな。
「私も、A子がどんな風に死ぬのか、見たかったわ」
きっと綺麗に違いないわ。そして最後にもう一度と、私たちは熱い視線を交わす。漏れ出る吐息の温度を感じながら、B子はやっぱりまた涙が零れてしまいそうになった。
「手、離さないでね」
「うん、離さないよ」
A子もB子も死ぬならここだとお互いに考えていたのだろうなと、初めてここでキスをしたときからそう考えていたのだろうなと、今になってやっと思う。心臓の音が放水よりもうるさくなって、B子は吐きそうになった。
二人は目を見てお互いに軽く頷く。身体を前へ倒すと、ふわりと足が離れた。それは一瞬のことで、その間A子はずっと微笑んだままだった。私もちゃんと笑えているのかな。
重力に引かれゆく中で、ふつりと、街灯の光が消えたような気がした。
あれから一週間くらい、A子の様子が変だった。私に何か言いたげで、でもどうしてかそれを躊躇っている。A子はいつだって自分に素直なはずなのに。彼女はしたい時にキスをして、したい時に抱きしめるのだ。私がそれを拒まないのを知っているから。
時折B子からそうしてあげると、A子は社会的な満足と肉体的な満足が一緒になったような顔をする。
「B子、私と一緒に死のうよ」
それから、思い詰めたような顔をして、彼女はそんなことを言った。
「あら、どうして?」
「勉強、辛いって言ってたでしょ? 助けてあげる。いつものダムで、飛び降りるの」
ダム、と聞いてB子は少しぞくりとした。
通学路の途中にダムがあって、私たちはそのダム湖を望みながら毎日通学している。湖の向こうには刑務所があって、小さい頃は刑務所の見える通学路を逃げるように通り抜けたことをよく覚えている。得体の知れない何かが確かにそこにあるという、言いようもない恐怖があった。
私たちと向こう側には湖という確かな隔絶があって、正しいことと正しくないことを二つにすっかり分けているようにも思われるのだ。だからダムの天端に立ってその狭間にいると、正しくあることもそうでないことも強いられない、何にも縛られていない私を感じられた。何をしたっていい、そう思うとB子は自然とA子に唇を重ねてしまう。A子は私をよくそこへ連れて行きたがった。
「大丈夫よ。死ぬほどじゃないし、あなたを道連れにするつもりはないわ」
「いいから! 今夜、B子の家に行くからね、分かった?」
A子は苛々して声を荒らげる。
B子が「テニス部を辞めて東京の大学に行く勉強をする」と用意もなくA子に伝えたのは、卒業しても遠距離恋愛でも頑張ろうね、だなんて甘い考えのせいではない。それでも彼女は頑張って私に着いてきてくれるだろうという期待と、私たちにはいつか終わりが来るんだと突き放そうとする気持ちが入り混じっていた。
A子は私との永遠が欲しいのだ。A子は悩みながらもずっと、B子との永遠の未来をまっすぐ見つめていた。そんな彼女が無理にでも私との永遠を作り出そうというのは、素直なA子らしい結論だと言える。
B子が勉強を苦にして自殺するだなんて、彼女は当然思っていない。本当は、A子だって分かっているのだ。永遠なんてないことを。A子もB子もいつか制服を脱いで大人になることを。彼女は私が諦めた永遠を、もがき続けて手に入れようとしているのだ。
A子はなんて不器用で可愛いんだろう。全力の愛に、私はいつも陶酔してしまう。だから、この期限付きの恋愛感情に任せて人生全部を彼女との永遠に捧げてしまっても、別に後悔はない。そう思う。
「えぇ、分かったわA子ちゃん。ありがとうね、好きよ」
「私も好きだよ、B子。本当に、好きでたまらないの」
校長によると、春にアンケートで「学校生活は楽しいですか」と問われた彼女たちは、二人とも「はい」と回答していた。いずれも悩みなどは書いていなかった。その一方で、二人のうち死亡した十六歳の少女は、最近になって部活を辞めたばかりだったという。