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ゆきずり

「ねぇ、リナ。やっぱり、結婚はもう少し先にしない?」

「え、急にどうしたの。明日あいさつに行くって、もう言ってあるんでしょ?」

「それは、そうだけど……

突然そう切り出されて困惑するリナは、赤ペンでマルをつけながら読み進めていた旅行雑誌をソファに放り投げてから、キッチンに立つ美代子の元に向かった。昨日までの計画によれば、美代子の実家で結婚のあいさつを済ませてから、地酒の蔵元が集まる酒蔵団地で観光を楽しむ予定だったのだ。

美代子もまた洗い終わった皿を拭く手を止めて、頭二つ分小さいリナに向き直った。余計なことを考えてしまいそうなときは、とにかく目の前の仕事に集中して忘れようとするのだが、今日ばかりはどうしても押し寄せる不安を受け流せずにいた。彼女も久しぶりに帰る地元の景色をリナに紹介できるのを楽しみにしていたはずで、それを反故にするとはなかなかの事態である。

「だけど、どうしたの? 結婚の話は美代子から始めたんじゃない。そろそろ両親を安心させてあげたい、って」

「分かってる、それは分かってるのよ。でもね……

「でも、何? あたし、美代子のそうやってはっきりしないところ、嫌だって言ったよね」

「ごめんなさい。どう言えばいいか、まとまらなくて……

「はっきりしてよ。将来に目を向けたら、急にあたしと暮らすのが嫌になった?」

リナは美代子の返事を促すつもりでわざとそう言ったのだが、どうにか言葉を選ぶのに精一杯の美代子には逆効果だった。きゅっと身体をすくめる姿を見たリナにもその不安が感染ったようで、不意に漏れ出た涙が彼女の目元いっぱいに溜まってしまう。リナは美代子からゆっくりと顔をそらして、涙を流す姿を見せないようにぐっと息を止めた。

せっかちなリナのペースに合わせるのに必死な美代子、という二人の姿はこの家ではあまり珍しくなかったが、涙が出るほど必死に美代子を責め立てるのは数ヶ月ぶりのことである。リナはひどく動揺していた。数年間一緒に暮らした末の結婚という帰結が美代子のたった一言でひっくり返ろうとしているわけで、リナがその言葉の真意を知りたがるのは当然だろう。

「ご、ごめんって。でも、今になって結婚を先延ばしにするなんて、やっぱり変だよ」

涙をやり過ごしてほんの少し落ち着きを取り戻したリナは、ぎゅっとエプロンを握る美代子の手を上から包み込んで、そう優しく言い聞かせた。半分はそのまま美代子に向けた言葉で、しかしもう半分は自分自身の気持ちを整理するためのものだ。すっかり冷えた美代子の手を温めながら、やっぱり変だ、という自分の言葉を反芻する。

やっぱり、変だ。新潟はまだ女同士の結婚を許さないのか。片親で育った素行の悪い子はダメなのか。私じゃ安心させられないとでもいうのか。もう新幹線のチケットも取ったのに、ホテルのキャンセル料だって80パーセントもかかってしまう。大事なことも些末なことも一緒になって、リナの頭を駆け巡る。

先月、二人でリナの母親に会いに行ったときは何も問題なかったはずだった。リナの母親は美代子をリナにはもったいないほどのいい子と評していたし、美代子もリナに「楽しくて素敵なお母さんね」と羨ましそうに語っていた。だからこそ、こんな事態になった原因は自分にあるのではないかと、リナはもはや妄想じみた悪い想像を止められずにいた。

美代子が再び口を開くまでの間、リナは彼女の長いまつげを揺らすまばたきからも、言葉に迷うたびに小さく動く唇からも目を離すことができない。それはほんの数十秒の沈黙だったが、その言葉を待って気が焦るリナにとってはまるで数時間のように感じられた。

「あのね……私たちのことを両親にどう説明したらいいのか、思いつかなくて」

……えっ?」

そうしてやっとのことで沈黙を破った美代子の言葉に、リナは再び面食らった。両親への説明なんて、ありのままを伝えるだけじゃないか。リナには自分たちのことを隠すような発想がなかったし、美代子が何を取り繕おうとしているのかも分からない。そもそも、地元を離れてもう実家に戻るつもりもないと言っていた美代子が、どうして親のせいでそんなに気を揉むのか理解できなかった。

そんなリナの困惑をよそに、昨日から抱えていた心配をやっと打ち明けられた美代子は胸を撫で下ろす。たとえこの先も帰るつもりがない実家であっても、厳しい両親に相対するのを想像すると一人では抱えきれない不安が湧き上がるものだった。リナと美代子の二人にとっては問題にはならなくても、親や周囲からは看過できないこともあるだろう。

「説明って……普通に紹介したらいいじゃん。もしかして、今さら女同士の結婚は無理なんて言うの?」

「そんなわけないじゃない。私、男とか女とか関係なく、これから先もリナとずっと一緒にいるつもりよ」

「う、うん……ごめん。それはあたしも、同じだから。じゃあ、いったい何を迷ってるわけ?」

リナは、はっきりとそう言ってのける美代子の顔をまっすぐに見つめるのが気恥ずかしくなって、そっと目をそらす。ぽぅと頬を染めるリナを思わず胸に抱き留めそうになった美代子だったが、子供扱いするなと言っていつものように怒られるのは目に見えているので、重ねられた手を握り返すだけで我慢した。

「えぇ、私たちの出会いのことよ。酔って行きずりの女性とホテルに行ったのがきっかけで……なんて絶対言えないじゃない? どうしたらいいのかしら……

すこぶる深刻な表情でそう告げた美代子を見て、リナは自分がここまで壮大な演技でからかわれてきたのかと疑った。彼女にとっては、その真剣さに比してそれほどまでにどうでもいいと思わせる悩みだったからだ。二人の出会いなんてこれまで積み重ねてきた生活に比べればただのきっかけに過ぎないし、軽薄な出会い方に眉をひそめる人相手にはいくらでも嘘をつけばいい。

しかし、美代子は嘘をつくのが苦手だった。頭の中で作り話を仕立て上げたり、都合の悪い事実を誤魔化そうとすると突拍子もないことを言ってしまうのだ。リナもそれを思い出すと、彼女はやはり冗談でからかおうとしているわけではなく、ただただ真面目に明日の顔合わせに不安を覚えているのだと信じざるを得なかった。

「どこで出会ったかなんて、言う必要ある? 先月もママとはそんな話しなかったじゃん」

「いいえ。きっと訊いてくるわ。兄さんの結婚のとき、探偵を使って身辺調査していたくらいだもの」

美代子の家系は地元の名家というわけでもなかったが、親族がそれなりに多いせいか長男の結婚には気合いが入っていたらしい。早々に家を離れた妹の美代子には兄のときほど深入りしないだろうと思いつつ、家同士の格がどうのという時代遅れな指摘は避けたいところ。些末なことから失礼なことまであれこれと根掘り葉掘り尋ねられるだろうという美代子の心配をよそに、リナは「面接みたいなものでしょ? 適当に話すから平気だよ」とどこ吹く風だった。

しかし、それから二人のなれそめも話題に上がるだろうと思い至ったのは、ちょうど昨日、美代子がブライダル会社のテレビCMを眺めていたときである。そのCMでは、偶然の出会いから結婚式までこぎ着けたカップルのストーリーを取り上げていたが、リナとの出会いはここまで美化できまい、と美代子を悩ませたのであった。

「じゃあ、先に対策しておこうよ。大学は同じなんだし、サークルで出会ったことにするとか」

「私、箏曲と短歌のサークルに所属していたわ。どっちがいいかしら?」

「箏は触ったこともないし……短歌も、難しいなぁ。美代子は、棒高跳びとか、いや、マラソンとかでもいいけど……想像つかないよね?」

「えぇと、『リナさんは、棒高跳びで15メートルも飛んだことがあって、そこから仲良くなったんです』……とか?」

ビルの5階相当の高さまで飛んでウレタンマットに飛び込む競技なんて、危険すぎて火星くらいでしか開催できない。棒高跳びをよく知らないのなら具体的な記録を持ち出さなければいいところ、どうにか嘘を強調しようとする美代子はいつも余計にさじ加減を間違うのだった。

「世界記録の三倍は流石に……じゃあ、短歌のサークルで出会ったことにするね」

リナは美代子の誘いで何度か短歌サークルを見学したことがあった。だから短歌を通じて出会ったと言い張っても嘘にはならないが、ほんの二週間の経験で短歌について語れるところが少ないというのは気がかりである。リナが理解しているのは31音のリズムと教科書で見た古い短歌の雰囲気だけだ。

それでも、サークルで交わされていたような現代短歌に批評を加えることができなくても、美代子が宇宙人の棒高跳びを回顧するよりは、まだ まし といったところだろう。

「そうね、出会いの件はなんとか頑張ってみるわ……でも、別の心配もあるのよ。実家に帰るのも久しぶりだし、アレを見られないように気をつけなきゃ」

リナが「アレ?」と聞き返すと、美代子は「これよ」とエプロンの下に着ていた薄手のリブニットを一緒にたくし上げて、程よく柔らかそうな腹部を目の前に晒した。リナは、突然露わになったまばゆいばかりの肌に、そして服と一緒に持ち上げられた大きな胸の膨らみにしばらく交互に見入っていたが、美代子の言う「アレ」のことを思い出してぶんぶんと頭を振る。

美代子のへその横から左の脇腹にかけて細い線のように残る傷跡は、彼女自身を除けばリナしか知らない二人だけの秘密である。色素の薄い肌の美代子に直接刻まれた滑らかな曲線はよく目立ち、まるで可動性のよいドールやアンドロイドの胴体を思わせるのだった。

「酔った勢いでこんな傷を作っちゃったなんて、誰にも言えないもの」

たくし上げた服をかい繕ってエプロンの上から腹部を撫でる美代子は、そう呟いて小さくため息をついた。小さく鋭いナイフの切っ先で引かれた傷は、初めこそおそるおそる刃先を動かしたような歪みが残っていたが、徐々に大胆で均整な軌道の美しさをまとっていく。美代子は自分の身体に刻まれたそのカーブを撫でるたびに、リナが自分に向ける視線の熱さをいつでも思い出せた。

「でも、美代子がやってほしいって言ったんだよ?」

「リナだって、途中から乗り気だったでしょう? 実際、私のお腹を切ったのはリナじゃない」

「そのナイフは美代子のでしょ? それに、美代子だって興奮してたじゃん。ラブホのベッドぐちゃぐちゃにしてさ」

……うん、お願いしたのは私の方ね。ごめんなさい。すごく、嬉しかったから」

「い、いや……私も……うん」

ストレートな言葉の不意打ちに恥ずかしくなって、リナは美代子の胸に勢いよく顔を埋めた。リナを胸に抱きしめても怒られない貴重な時間に、美代子は待ってましたと言わんばかりに癖毛のショートボブを優しく撫でつける。こうしてリナを腕の中に包み込んでいると、まるで母親になったような心地になるのだ。

……母親?

「そうだ! いいこと考えたわ」

「変なことじゃないよね?」

嫌な予感と共に顔を上げたリナは、怪訝な表情で美代子の表情を覗き込む。美代子の頭に「母親」という言葉が浮かんだのは、もちろんリナの知るところではなかったが、それでも彼女の口から飛び出すのが いいこと ではないのは予想できた。

「二人で妊娠していることにしましょうよ。授かり婚なら、きっといろいろ誤魔化せるわ」

やっぱり、とリナは思った。

二つの生殖細胞から人工的に受精卵を作る技術が一般的に利用されるようになってから、生産性がないだとか国が滅びるだとか評されてきた同性婚カップルに等しく権利が与えられるまでに時間はかからなかった。特に、女性同士のカップルがお互いの受精卵を身に宿して生まれた双子は二体性双生児と呼ばれていて、二人の母親に二人の姉妹という四人家族の姿はある種のモデルケースである。

しかし、女性同士の妊娠は一夜の過ちや避妊の失敗で起こるものではない。専門医の技術の下で数週間から数ヶ月かけてお互いの卵子を人工的に交換するのだから、妊娠してしまったから結婚します、という因果の逆転を起こすほどの理性の隙はどこにもないのだ。嘘をつくのが苦手な美代子らしい、どうにも大味な思いつきである。

「あたし、お父さんに殴られたりしない? 厳しい人なんじゃないの?」

「だから二体性にするんじゃない。お互いに妊娠したら、一方的に怒るわけにはいかないでしょ?」

辻褄の合わない無茶な筋書きを今から一つ一つ直したところで、そのまともな嘘さえ突き通せないだろう美代子の姿を想像して途方に暮れたリナは、すっかり身体の力が抜けてまた美代子の身体に寄りかかった。もちろん美代子には彼女の気苦労が伝わることはなく、昨日からの悩みが晴れてすっきりとした顔である。

「だって、孫がいっぺんに二人もできるのよ? リナのお母さんも喜ぶわ。ね、ね、いいでしょう?」

「あー……そうね。美代子の子供なら、産んでもいいかな」

私と美代子の結婚だ。美代子は私のだ。私が傷を残したんだ。親との顔合わせなんてどうにでもなれ。そうして顔を上げるのも億劫になったリナは、遠い雪国の景色をぼんやりと思い浮かべながら美代子の柔らかさに身を任せていた。


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