/* この作品は東雲銀座広報 ゆり時計に収録されています。 */
――暗闇が辺りを包む夜の草原。そこには、煌々と光を放つビルはおろか、わずかに道を照らす街灯さえどこにも見当たらない。少しずつ前に進む 僕 の頼りになるのは、右手に握られた魔法の杖が放つ小さな光だけだった。もし目の前が危険な断崖絶壁だとしても、今の僕には決して分からないだろう。そんな自然のままの景色を、足元を探りながら一人で歩いていた。
そっと息を吸って、吐く。両耳に届く静かな風の音が、この高原の土を、草の絨毯を踏みしめているという実感を与えてくれた。なだらかな丘の頂上に立つ大きな木の影が目に入って、僕は不意に上へと視線を向ける。そして、はっと息を呑んだ……その瞬間を、僕は決して忘れないだろう。
暗かったはずの夜空が、いつの間にか明々と輝く大小の星々で一面埋め尽くされている。その瞬間、先ほどまで光のなかった世界に新たな光明が差していた。僕はその自然の芸術を視界に全て収めるために、草原のベッドに横たわった。理想的な星夜であれば、一時に肉眼で見える星の数は約四千三百ほどだという。しかし、今の僕にはその数万倍、いや――
「ライラ、そろそろお昼作ろうと……あれ、またVRやってるの?」
「うわっ! ……あー、ごめん。何か用?」
「お昼ご飯作っちゃうけど、ライラも食べる?」
――と、そんな孤独で美しい
これじゃ、せっかくの記事の導入が台無しだ。ニコラには常日頃からVRセッションの邪魔をしないよう粘り強く説得を続けてきたつもりだけど、彼女とはプライベートスペースの認識についてもう一度合意を形成する必要があるかもしれない。
ヘッドセットを持ち上げて頭から外すと、私の顔を覗き込むニコラの姿が目に入る。さっきまでの世界観とは全く違う見慣れたいつもの普段着――海外旅行のお土産か何かでもらったらしい、エキゾチックな柄のトップスとショートパンツ――が、私の意識をこの小さな部屋に呼び戻した。
「あのね、ニコラ……」
と言いかけたあたりで、そういえば、部屋の前のサインプレートを「
いや……うん、今回は私が悪い。そういうことにしておこう。
そうしてなんとか数時間前の自分と折り合いをつけて頷いていると、ニコラが不思議そうに首を傾げた。肩の辺りまで適当に伸ばした黒いミディアムヘアがぱさりと揺れる。
「どうしたの、ライラ?」
野暮ったい大きな黒フレームの眼鏡には、その印象とは対照的な細い銀色のグラスチェーンが下がっていた。彼女の動きに合わせてきらきらと揺れるチェーンを見ていると、なんとなく心地いい。
数ヶ月前にカットから帰ってきた直後は、そのシャープな顔立ちに似合うショートボブだったけど、それからは特に手入れされず 自然に任されて いる。あのときはどういうわけか「ライラ、髪を切ってくれない?」と頼まれたところを、どうにか並の美容室に行くよう説得したのだった。
一応言っておくと、私は美容師でも美容師見習いでもない、ただのVR専門ライターだ。
「えーと……そうだ、うん、お昼ご飯。何を作ってくれるんだっけ?」
「サーモンとプチプチで親子丼の予定! ストッカーに二人分余ってたから」
親子丼は、淡白で単調な食感のサーモンに、口の中でとろりと弾けるプチプチを添えた簡単で美味しい定番料理のひとつだ。普段は何気なく「親子丼」と呼んでいるけど、「赤くて丸いプチプチがサーモンの培養核に似ているから」という理由はどうも腑に落ちない。どちらも培養か合成で作られる人工食品1だから、比喩にしても少し不思議な響きを感じる。
キューブ型のサーモンと丸いプチプチの取り合わせは、見た目が華やかでファミレスの子供向けメニューでも人気が高い。本当はさらに三角形のグリーンバターを加えるのが定番で、しかし、そんな贅沢な調味料に割くほどの経済的余裕はなかった。それでも、この前買い溜めていたサーモンはもう食べきったとばかり思っていたから、ちょっと嬉しい。
「今日はどんなゲームをやってたの?」
「ゲームじゃなくて、ワールドね。『アステロイド・ベルト』っていう、山に登って星空を探すアトラクションで――」
さっきニコラが来る前に取材していた「アステロイド・ベルト」は、ちょっと玄人向けのワールドだ。スポーン地点は真っ暗な山の麓で、ある程度先に進まないと星空を眺めることはできない。小さなペンライト一つで目の前を照らしながら、星空の見える高原を目指して進んでいく。
美しい景色をおあずけにされることで、ゴールに辿り着いたときに大きな達成感となって跳ね返ってくるという、ちょっと回りくどい仕組みになっているわけだ。VR初心者なら特に戸惑いやすいワールドで、何分か同じ場所をぐるぐる回った末に結局飽きて帰ってしまうらしい。画面映えのなさから配信者にも敬遠され、どうしても人気が出ないので魅力を紹介してほしい、という依頼だった。
「星空? それくらい、テレウィンドウでいつでも見られるのに」
そう言ってニコラが指差す窓の向こうでは、薄暗い緑に包まれた静かな渓流の中で、黒くて細い輪郭のハグロトンボが優雅にひらひらと飛んでいる。もちろん、これは私たちが自然あふれる山奥での生活を送っているわけではなく、都心の小さな2DKの窓全体を覆うテレウィンドウ――平たく言えばAIディスプレイが映す景色に過ぎない。
拡散モデルで逐次生成される映像に一つとして同じものはなく、少し不自然な動きのトンボが水しぶきと同化して消えたかと思うと、木々の間からまたうっすらと新たな個体が現れて、少しずつ違う風景に変わっていく。私の「自然」と「山」というキーワードに反応して、いつの間にか新しいプロンプトに切り替わっていたらしい。
確かに、各家庭でこのテレウィンドウを入手できるようになれば、VRデバイスの売り上げに影響が出てもおかしくはないだろう。しかし、高価なテレウィンドウが整備されていて、なおかつ手頃な家賃で住める物件はここ以外に見たことがなかった。
「まぁ、そういう仕事なのよ」
「私もこの景色でエッセイでも書いてみようかな。AIオタクなら何人か買ってくれそう」
「あなた、文章なんか書けないでしょ」
私の言葉を聞いたニコラは腕を組んでうーんと数秒悩んだ末に、なぜか満足そうに頷く。そして「じゃあ、このアイデアはライラにあげるね」と言って、キッチンに戻っていった。
私とニコラは、この五階建ての
ニコラとは、半年前にルームシェア専門のマッチングサービスで知り合った間柄だ。彼女は短期の案件を転々としているエンジニアで、お金が貯まったら働くのをやめ、貯金が尽きたらまた働き始めて……というのを繰り返している。無職の期間を長く保つために、生活費はできるだけ抑えたいらしい。
この住宅の大きな特徴は、家賃の安さだった。曲面の壁や窓は家具やカーテンを設えるには不便だし、窓は自然光の入らないAIディスプレイで覆われて、おまけにベランダもないという欠点だらけの住環境はやはり人気がないらしい。おかげで、周辺相場の半分以下という破格の家賃で提供されている。折半すれば一ヶ月分の予算で四ヶ月は暮らせる計算で、これほど効率のよいルームシェアは私にとっても願ってもない選択肢だった。
家賃だけではなく、電気代が極端に安いのも魅力だろう。住宅内のテレディスプレイを年中無休で点灯しておく2ために結ばれた大電力契約と一本化されているおかげで、各部屋で使用する電力の単価が工場並みに抑えられていた。部屋にサーバーやネットワーク機器を積んで世話をしているニコラにとっては、まさに渡りに船といったところだったろう。
「さっきステラが、カフェ・レヴァリィのケーキを買って帰ってきたよ。やっぱり昨夜はケンカしてたんだね」
「ふーん。でも、あのカペラがケーキくらいで許すかしら」
ニコラと向かい合わせで座る白いエンプラ板のテーブルの上には、濃紺のボウルに盛られた親子丼と、翡翠色の濃縮還元フレーバーティーで満たされた透明なコップが二つずつ。それと、ニコラの横には最近ではあまり見かけなくなった 物理の ノートパソコンが持ち込まれ、黒い電源ケーブルやネットワーク用の青いケーブルやらが取り付けられている。
この共用のダイニングルームには、備え付けの冷蔵庫と冷凍ストッカー、洗濯乾燥機やその他雑多な古い家電家具が壁に沿って並べられており、雑然とした古めかしい印象が拭えない。油とほこりがこびりついた旧式のトースターはもはや使い物にならないが、勝手に捨てていいのか分からずにいた。
「 ふぁ からね、いま『イーグル』に繋いでるとこ」
ニコラはサーモンを一口食べたスプーンをくわえたままそう言うと、器用にその柄を指の間に持ち替えてノートパソコンを触り始めた。さっきまでジャックしていたエントランスの防犯カメラ映像を、二階北側――ステラとカペラが住んでいる部屋の近くだ――の音声に切り替えているのだろう。
彼女が「イーグル」と呼ぶ壁伝導センサーは、ニコラが廊下の壁に貼って回った小さな特製モジュールだ。円形に配置された部屋の幾何学的構造のおかげで、パラボラアンテナのように音を効率よく集められる場所がいくつかあるらしい。センサーの見た目はワシをモチーフにしたイラストが描かれたただの小さなステッカーで、古い貼り紙だらけの雑然とした壁に貼り付けるのに適したカモフラージュになっていた。
『カペラ、昨日はごめんよ~……』
『これ、レヴァリィの……仕方ないなぁ、今回だけだからね』
イーグルはバッテリーを一切使わずに中距離から盗聴できるモジュールで、特定の周波数の電波を送ると、こんな感じで音声が乗って返ってくるらしい。詳しい仕組みはよく分からないものの、魔法のような代物だ。
「ほらね」
「でも、明日にはまた『ステラのせいで体重が増えた』って怒ってるかも」
「あはは。言えてる」
見て分かるとおり、ニコラはこうして
とはいえ、ここで正義に則ってニコラを通報しても、せいぜい二倍の家賃という不条理な罰金を払う羽目になるだけだろう。それに、今まで彼女の犯罪を見過ごしてきた事実は私にも不利に働くはずだ。そういう勘案と、ニコラなら何があってもどうにか隠しおおせるだろうという謎の信頼から、今はこの共犯めいた関係を楽しむことにしていた。
それから、一通りステラとカペラの会話を聴取したニコラは、スピーカーから片耳に着けたモニターイヤホンに切り替えて住宅の 巡回 を始める。そして、何部屋か確認を終えたところで、もう一方のイヤホンを私に手渡した。
「あ、中庭の音が聞こえるよ。ほら、オオカミの遠吠えみたい……」
「最近また強くなってきてるわね」
イヤホンからは、金属が擦れる音のような、猛獣のうめき声のような不協和音が途切れ途切れに流れている。目を閉じて意味ありげな音の羅列に聴き入るニコラの様子は、端から見ればお気に入りの音楽でもシェアしているように見えるけど、この雑音は音楽と呼ぶにはあまりに不安定だった。
ニコラが「中庭」と呼ぶ
もちろん、この雑音は普通に生活している住民たちに聞こえるようなものではない。感度のよいイーグルが壁伝いの振動を増幅しないと、こうして音として聞き取ることさえ難しい微弱な現象だ。住民の中ではおそらく私たちだけがこの「中庭の音」現象を知っていた。
中庭の音なんておしゃれな名前の現象なら、もっと優雅な小鳥のさえずりや噴水の音を聞いていたいものだ。そんなことを思いながら、私も黒い海鮮シーズニングを振りかけて、とっておきの親子丼を食べ始めた。
週刊連載コラム「ララのメタ世界探訪記」。まだ十分に注目を集めていない新進気鋭のワールド、クオリティは高いものの日の目を見ないまま新着リスト落ちしてしまった隠れ家的ワールド……その他、私がピンときたマイナーなワールドを毎週いくつか取り上げてその魅力を発信するコーナーである。
さっきまで滞在していた「アステロイド・ベルト」の紹介は、ワールドの制作者から依頼を受けて書いているPRだけど、このコラムはむしろエッセイに近い。こうして暇な時間に回ったワールドの日記をまとめて送るだけという、比較的気楽な仕事だ。もちろん、そういう ただの日記 で必要以上に褒めたり皮肉を込めたりするとコメントが荒れるから、単なる宣伝記事より表現に気を遣う部分は多かったりする。
たまに「新しいワールドを作ったのでコラムで取り上げてください!」なんてDMが届くけど、そういう出会い方をすると、いくら面白そうなワールドでも記事にはできなくなってしまう。下手な立ち回りで宣伝に使われたりしてステマがどうのと騒がれるのは癪だし、同じような宣伝依頼が増えるのが目に見えているからだ。
しかも、そこから正式な執筆依頼に繋がることは滅多になく、ほとんどは「紹介という体でどうにか無料で……」なんて無茶な主張の一点張りに持ち込まれるので性質が悪い。現に承認待ちのメッセージリストはその手のスパムで埋め尽くされていて、まともな仕事の依頼を探し出すのに苦労していた。そういう時は、たいてい自動応答モードに切り替えて適当なボットに返信を任せている。
統合チャットアプリを立ち上げると、今日も既に数十件の未読通知が上に並んでいた。
清流のせせらぎに包まれたり、だだっ広い草原で風の音を楽しむリラックス自然系のワールド――細かな工夫に手間をかけていそうだけど、紹介できるほどの特徴はなさそう。記念撮影によるバズを狙った個性的なランドマークを中心に据えた名所系ワールド――それ、私が文章で紹介する必要ある? ……と、添付されたリンクも見ずに自動応答モードにスワイプしていると、不思議なメッセージが目に留まった。
『ララさん。どうか彼女を救ってくださいませんか』
『外に連れ出してくださるだけでよいのです。それで全てが回り始めます』
『本物の光を見せてあげたいのです』
途中まで読んでから、こんな単純な手口にまんまと引っかかってしまった自分に嫌気が差す。まるで勇者に世界を救ってほしいと告げる神官のようなセリフの数々。先を見ずとも、謎解き系でストーリー強めのワールドを紹介するための導入なのは明らかだった。こういう宣伝手法も最近増えてきたな。
もうスクリーニングAIに初期対応から任せてしまおうかと思ったものの、ニコラにバレたら「プライバシーとセキュリティ」に関する七十時間程度の講義を勧められて、また面倒なことになる気がした。彼女は些細なプライベートの一部でさえ、暗号化せずにクラウドに送るのを極端に嫌っていたから。
「彼女を救って、って……ゲームはゲームでしょ?」
『これはゲームではありません』
「……そうですか」
『時間がないのです。早くしなければこのワールドは閉じてしまいます』
「呆れた。深夜の通販番組じゃないんだから」
こちらの反応を見透かしたような構成にまた腹が立つ。何もしないままワールドが閉じたからって、それは「彼女」を救えなかったことにはならない。ワールドを複製すれば囚われの姫はそれだけ増えるし、逆にワールドが消えれば姫は初めから一人もいなかったと主張することさえできる。自由に作ったり壊したりできないなら、それは現実世界と変わらない。
あの手この手で私の気を引いてまでプレイして欲しいゲームなら、さぞ完成度が高くて完璧な仕上がりなのだろう。
「本当に面白かったら、紹介でも宣伝でもしてやろうじゃない」
わざと目を引くように練られたメッセージにまんまと反応したのは私が悪い。だから敬意を表して、しっかり 批評 してあげた方がいい。末尾に添付されていたリンクは見慣れない文字列で、おそらく海外のマイナーサービスか、セルフホストのサーバのもののようだった。
ワールドのプレビューを開いてみると、生活感のある薄暗い部屋を背景に、ピンク色のパジャマを着た小学生くらいの少女の後ろ姿が映り込んでいた。体育座りで膝を抱えて、いかにも不穏そうな雰囲気を放っている。綺麗な金髪はこういったモデルにはありがちで、この子が 姫 ということなのだろう。
数枚のスクリーンショットはいずれも画質が不鮮明な上に、構図が練られているような様子もない。プレイ動画を一定間隔で切り取ったようなシーンばかりだ。
フレンド同士で集まったり知らない人同士で交流を楽しめるように作られているワールドが多い中で、人数制限が一人に絞られているのも特徴的だった。ワールドの複製も制限されているから、並列で楽しむことさえできない。一人で楽しむための特別な設計が施されているか、サービス側のリソースが複数人を参加させるレベルにないか、といったところだろう。
こういう未審査のワールドでは、プレビューからは予想できないセーフティ3が必要になるレベルの過激な表現を伴うことが多い。私はセーフティレベルを最大のX8にして、スプラッター映画にでも臨むような心地で何度か深呼吸をする。それから「ダイブ」にカーソルを合わせて、ゆっくりとトリガーした。
十秒ほどのトランジションの後に私が降り立ったのは、奥に部屋が続く細い廊下の中腹だった。振り向くと玄関が、左を見ると小さなシンクとコンロを備えたキッチンが目に入る。天井には簡素な照明器具が設置されているが、剥き出しの細長い蛍光灯には光が点っていない。
冷蔵庫、電子レンジ、ケトルと、ある程度の家電は並べられているが、棚には調理器具や食器が置かれている様子がなかった。細かいオブジェクトを大量に配置すると動作が重くなるし、探索の自由度を高めすぎてもユーザーが飽きるから意図的に減らしたのかもしれない。
しかし、天井、キッチン、廊下の先……何度か向きを変えると、その度に小さな引っかかりを感じる。さらに周囲を確認しているうちに、視界全体に広がる違和感と不快感が身体全体を支配していくのが分かった。
「うぇ……これ、酔いそう」
顔の向きを変える速度に、視界が全く追いつかない。右を向くと、一秒遅れて右へ。左を向くと、また遅れて左へ。レンダリングコストを全く無視したワールド特有のあの感じ。処理能力の限界を超えないようにゆっくり動けば ずれ は減るものの、これでは周囲を見回したり何かに注目するのさえ億劫になってしまう。VR体験としては「最悪」の類のものだ。
数多くのワールドに潜ってきた私でさえ、ここまでのスペックが要求されるものは見たことがなかった。制作者はよっぽど高価なデバイスでテストしたみたいだけど、こんなワールドを紹介したら私まで叩かれてしまう。グラフィック重視のハイエンド向けワールドは、廉価版しか持っていないネットの暇人には特に評判が悪いのだ。
こんなワールドを記事にはできないし、久しぶりのVR酔いで最悪の気分だし、もう帰ってもいいかしら。
「パ……パパ? 大丈夫?」
と、クイックメニューを開いてホームに戻ろうとしたところ、廊下の奥からこちらの様子を窺うような細々とした声が聞こえた。音のする方向にゆっくり視界を向けて注目したものの、ネームプレートはおろかユーザーランクを示すステータスカラーすら確認できない。
考えてみれば、ここは一人用のワールドなのだから他のプレイヤーがいるわけがない。声の印象から察するに、さっきプレビューに映っていた体育座りの少女のものだろう。素人っぽさを残しつつ、きちんと小学生っぽさを主張する生々しい演技だ。ふと「これはゲームではありません」という紹介を思い出すほどの存在感があった。
「あなた、誰?」
ただのNPCなのは理解しつつ、まだ得体の知れない
こちらの呼びかけに応じて、予想通り少女が歩み寄ってきた。明るく綺麗なストレートの金髪に、透き通った茶色の瞳、リアルさを残しつつ適度にデフォルメされている整った目鼻立ち。ピンク色のパジャマは光の反射がよく制御されていて、つやつやとしたシルクっぽい質感を示していた。
彼女は先ほどよりも少し緊張が緩んだ様子で、しかし、私の問いには答えずさらに質問を続ける。
「イヴなの? パパはお仕事に行った?」
イヴというのは、本来ここにいるべき少女の家族か友達か――とにかく私ではない誰か――で、彼女が心を許せる相手なのだろう。しかし、そんな存在を私や
目の前の少女はよく作り込まれたモデルで私を見上げて、じっと私の動きを観察している。
「私、イヴじゃないわ。あなたの名前は? 私の声、聞こえてる?」
私を「イヴ」と呼んだ少女にもう一度尋ねるも、彼女はきょとんとした表情で私を見つめるだけ。確かに私の声は聞こえているはずなのに、その内容を理解できずにいた。随分と出来が悪いAIだ。無料の会話AIだって、もう少しまともな反応を示すと思うけど。
少女は私を訝るように首を傾げると、垣間見せた「イヴ」への安心感を背中に隠すように、警戒した面持ちで一歩後ろへ下がった。
「イヴじゃないの? あなた、だれ?」
「私はララよ。あなたは?」
「パ、パ? やっぱり、パパなの?」
戸惑った少女の表情が晴れることはなく、このストレスフルな導入パートはもうしばらく続く様子だった。こちらの言葉が全く伝わらなくてじれったい。そんなに私の発音が悪いっていうの?
そもそも、パパとララって全然違うじゃない。音が二つで、どちらも同じ母音で……いや、少しだけ似てるかもしれない。ままならない会話へのもどかしさでカッとしていたけど、音声認識で混同されやすい語ではあるだろう。それなら仕方ない、と先ほどよりゆっくり、そしてはっきりと少女に名前を告げた。
「……ラ、イ、ラ」
「パ……えーと、ア? でもなくて……わかった、ライラね。ライラっていうのね?」
あぁ、やっと伝わった。名前を呼ばれるのがこんなに嬉しいなんて。本名から一文字抜いた「ララ」というハンドルネームはそれなりに気に入っていたけど、ゲームを進めるためなら別に本名でもいい。小さな達成感と共に大きく頷くと、少女は嬉しそうに飛び跳ねた。
「よかった! ライラ、私のお家へようこそ!」
名前を伝えるだけでこんなに苦労するとは、先の展開が思いやられる。それでも、このかわいらしい少女が私のアクションで表情豊かな反応を見せるとなかなか悪い気はしないし、ゲームデザインとしては練られている気がした。
「私はアキラ。ここで一人で暮らしてるの。でも、パパとイヴがお世話してくれるのよ」
アキラ――ほんのり男の子っぽい元気な名前は、 姫 のおしゃまな振る舞いには少し似合わない気がした。
それから、アキラは私を廊下の先にある部屋に案内してくれた。照明もなくほんのりと空間全体が光る薄暗い部屋にはなぜか窓がなく、パースのパラメータが誤っているのか四方を囲む壁が少し歪んで見える。ここが実は地下室だと言われても疑わないほどの強い閉塞感は、 姫 を閉じ込める牢獄としての舞台設定を十分に表現していた。
床には毛布やタオルケットのようなテクスチャが雑然と広がり、それらの布の上にはいろいろな日用品が転がっていた。その中でも大事そうに置かれている灰色の丸いクッションは、彼女のお気に入りなのだという。
「ふわふわで柔らかいでしょう? 生まれたときからずっと一緒なの」
パパ、そしてイヴ。アキラをこの部屋から救うというストーリーを考えれば、彼女が「パパ」と呼ぶ存在が悪の親玉となるだろうか。イヴはアキラ専属のメイドか、あるいはママ――アダムと対をなすという意味で――を示しているのかもしれない。いずれにせよ、彼女をここから連れ出すための鍵になりそうだ。
「ライラも、私のお世話してくれる? 私、あなたと遊びたいわ」
上目遣いでそう尋ねる視線に、人間じみた不思議な魅力を感じながらゆっくりと頷くと、アキラは私の手を握って嬉しそうに微笑んだ。
不思議なことに、アキラは音声認識以外の性能は最新のAIと遜色なかった。先ほどまで見せていた食事のモーションは実際のプレイヤーと区別が付かないほど精巧で、ジェスチャーから意図を察する機能にもミスや遅れがない。それらがむしろ音声認識よりも実装が難しい分野なのが不思議だった。
「私、親子丼って大好き! ライラが作ってくれたの?」
首を振る。私は冷蔵庫にあった丼のオブジェクトをお盆に載せて運んだだけだ。まだ精巧な制御が必要な動作をこなせるほど、このワールドに慣れていなかった。
「じゃあ、きっとイヴが冷蔵庫に作り置きしてたのね」
しかし、高性能AIのデモが続くばかりで、いつまで経っても謎も事件も起こらない。チュートリアルはとっくに終わっているはずなのに、アキラの遊び相手のようなパートだけが続いていた。いろいろなオブジェクトを持ち上げたり、棚や引き出しを開けてみても、逐一アキラの説明が始まるばかりで不審者もポルターガイストも気配さえ見せない。
ここまで来たら、ストーリー開始の糸口くらい見つけ出したいところだ。何か打開策はないだろうか……と辺りを見回しているうちに、薄暗い廊下とその先にある玄関に目が行った。このワールドを紹介していた 神官 が「外に連れ出すだけでいい」と言っていたのを思い出す。
まだゲームは始まっていなかったってこと? つまり、突然の来訪者――もちろん私のことだ――が保護者のいない隙を狙って外に連れ出すところから始まるストーリー……なんとも犯罪めいた感じはするが、プレイヤーが自発的に違法な行為を選び取るまでクリアできないゲームというのも、ある種個性があって魅力的かもしれない。
それなら、もうきっとワールド制作者がやきもきしている頃だろう。私はアキラの手を握って、立ち上がるように促した。
「どうしたの、ライラ? かけっこでもする?」
今からあなたを外に連れて行くのよ、と言ってもその声はアキラに届かないだろう。私はアキラをできるだけ落ち着かせるために、彼女に目線の高さを合わせるように体をかがめて顔を寄せた。そして、アキラの両手を握って目を見ながら一歩ずつ後ずさりで玄関に向かっていく。
初めは私が何をするつもりか分からずにいたアキラは、廊下まで手を引かれたあたりでその意図に気付くと、慌てて私を止めようとする。
「お外はダメよ、ライラ。パパに怒られちゃうわ」
やはり悪役の「パパ」がここで出てくるわけだ。思った通りのキーワードを引き出せた満足感で、早くストーリーを進めたい気持ちがはやる。しかし、二人の矛盾する動きをワールドの物理演算が上手く解決できなかったのか、アキラに引かれた視界が私の後ろに残って動かない。それでもさらに構わず彼女の手を引くと、今度は逆に視界がぶれて前に飛んだ。
「ライラ! ねぇ、ライラったら……本当に行くの? 私、知らないからね。ライラが勝手に私を連れていったのよ?」
アキラが私を止めようと引っ張る腕の力が弱くなる。私の力には勝てないと思ったのか、それとも、外に出る理由が欲しいだけなのか。いずれにしても、強気だったアキラが抵抗をやめる瞬間、背中にぞくりとした不快な興奮が走るのを感じた。あぁ、私がこの子を救うんだ。
玄関のドアノブに手を掛けると、カチャンという軽やかな手応えが耳に伝わる。これが正しい選択肢でしょ?という確信と共に一歩前に進むと、急にドン、と不可視の存在にぶつかるのを感じて身体が止まった。いや、私の身体は動いているけれど、また視界が一歩分後ろに残ったまま進まないのだ。
歩く速度には気を付けていたつもりだけど、この絶好のタイミングで通信エラーか……と、キャリブレーションのためにぐるりと周囲を見回すと、私が手を引いていたはずの少女の姿はなく――その瞬間、アキラの身体が廊下の端まで吹き飛ばされ、部屋の扉に背中を強く打ち付けていた。
「パパ、ごめんなさい! ごめんなさい……」
目に見えない強い力に薙ぎ払われ、放物線を描いて床に転がったアキラは、すぐに起き上がって身を守るように小さくうずくまった。そして、うわ言のように「パパ」への許しを乞い始める。私はその悲痛な姿を前に、ゲームであることも忘れて思わず「アキラ、どうしたの? アキラ!」と叫んでいた。
私の声にならない声は震える彼女に届いていたようで、ハッと顔を上げた泣き顔のアキラと目が合う。でも、動けない。もう足が動かない。
「ライラ! ライラ、私を助けて! あ、あぁ――」
そう私の名前を呼ぶアキラの悲痛な叫び声と共に、どこからともなく「おい! お前、イヴじゃないな!」という男の怒鳴り声が聞こえたかと思うと……
急な静けさの中、私はしばらくの間動けずにいた。見慣れたホーム画面の天井を見つめているうちに、だんだんとVR酔いが覚めていく。私の身体がここにあるという、確かに地面を踏みしめている感覚が戻ってきた。しかし、目の前で繰り広げられたあの強烈な場面は、目に見えない存在への恐怖と共にまだしっかりと思い出せる。
ヘッドセットを外すと、いつもの部屋に横たわる自分の身体に意識が重なってはっきりしていく。視界の端で光るテレウィンドウには、私の言葉を拾ってどうにか組み上げたらしい壊れたテクスチャだらけの薄暗い廊下が表示されていた。真っ暗で何も見えない向こう側から、またあの怒鳴り声が聞こえるのを想像して、ぶるりと身が震える。
ここまでが体験版ってことなのかしら。ジャンルは謎解きというよりホラーだろう。いつになくリアルな空気だった。単にグラフィックを精細美麗にするだけでは決して得られることのない、限りなく日常に近い不調和と狂気。足を一歩進めることさえ躊躇う不気味さとほの暗さ。ひょっとすると、まだ発掘されていない天才が作った作品かもしれない。
これは、本当にゲームなのか? キャッチコピーを付けるならこんな感じだろうか。「キミに少女が救えるか」なんてのより、不穏さと不気味さを重視した方がページビューを稼げるはずだから。
「でも、これ……本当に、ただのゲームなのかしら」
私に助けを乞うアキラの声が、どうしても忘れられない。まるで、本当にずっとあの
とりあえず、初めに受け取ったメッセージには返信しておこう。どのように紹介してほしいのか、開発状況はどうなのか……そもそも、シナリオのモデルは法的に問題ないものか。聞きたいことはたくさんあった。本当なら早く続きをプレイしたいところだけど、いったん顔を洗って落ち着くべきだ。
外のサインプレートを戻そうと思ってドアノブに手を掛けると、ちょうど私に用事があったらしいニコラと鉢合わせした。
「あ、ライラ。外からの攻撃パケットがめっちゃ増えてるんだけど! 心当たりない?」
ニコラは少し慌てた様子だった。どこかから攻撃を受けているらしい。しかし、私は数時間前から部屋にこもってずっとアキラ……そう、アキラと過ごしていただけで、スパムもウイルスも開いた覚えはなかった。
「攻撃パケット? 私、さっきまでワールドに潜ってただけで、別に何も……」
「今から証拠を集めて反撃を……って、ライラ、顔が真っ青だね。どうしたの? 柄にもなく、VR酔いでもした?」
心配そうに覗き込むニコラの顔が近づいて、私は元気よと返すつもりで自分の両頬に手を当ててみる。しかし、私の顔は血の気を感じないほどに冷えていて、さらに手足は痺れるほどに凍えていた。あのリアルな光景に、現実とゲームの境界が曖昧になる感覚に自分が混乱していたことにやっと気付く。
「ニ、ニコラ……私、あのね、さっき、え、えっと……」
アキラが、イヴが、パパが――と、状況を整理しようとしても、あの光景が蘇って言葉が出ない。私の身に起きたことなど知らないきょとんとしたニコラの顔を見ているうちに、私はなぜかわんわんと声を上げて泣いていた。
それから、私はワールドを宣伝する巧妙なメッセージを受け取ったこと、そのワールドでアキラという少女に出会ったこと、アキラが「パパ」と呼ぶ不可視の存在に吹き飛ばされたこと、そこでワールドが強制終了してしまったことについて、ニコラが
改めて身に降りかかった事件を振り返ると、まるでVRマニアがヘッドセットを着けたまま眠ったときの夢の話をしているようで、さっきまで目の前で起こっていたことのはずなのに現実味がない。いや、ほとんどは別の
きっとニコラも、この不気味で荒唐無稽な話に首を傾げるだろうと思ったものの、なぜか彼女は話を進めるごとに不機嫌そうな表情で小さく「やっぱり」「ありえない」と文句を言うばかりで、この話に疑問を示す様子もない。それどころか、私の話に割り込むようにテーブルに手のひらを打ち付けて、専門用語っぽい――私には理解できなかった――謎の語彙を交えて喚き始めた。
「――古くて単調なエクスプロイトを大量に送るだけ……どうせただの
「別に私、騙されてないわ。ただ、ちょっとゲームをプレイしただけで」
「だってライラ、泣いてるじゃん! 泣かされた上に追い討ちで攻撃されるなんて、悔しくないの?」
「ゲームで泣くことだってあるわよ。私は心が動いたから泣いたの。だいたい……」
まだニコラがこんなに怒っている理由も分からないまま、彼女の語気に合わせて私の口調まで強くなっていく。悪い流れだった。私にしぶとく残る不安な気持ちがそのままニコラへの敵対心に変わりそうなのを感じて、一度ゆっくり深呼吸をする。顔にも手足にも熱が戻ってきたのに、身体の奥深くがまだ落ち着かずにいた。
「――ふぅ。そもそも、追い討ちってどういうことよ?」
「外から攻撃を受けてるんだよ。
「でも、私のヘッドセットは壊れてないわ。インターネットも繋がってるし」
「あーもう、そうじゃなくて! たぶんライラが接続したワールドと同じIPアドレスから、ウチの……私たちのネットワーク全体に攻撃が来てるの。きっと、初めからそのつもりだったんだよ」
攻撃? アキラのワールドから? そんなわけない、と咄嗟に言い返しそうになったけど、最初に送られたDMが私を狙った標的型攻撃で、魅力的なワールドの紹介を装って私の居場所を特定しようとしていた――とすれば話は繋がる。しかし、誰がそんなことを。熱心な私のファンかサイバーストーカーか……口には出さないけれど、ニコラが味方でよかった、と思う。
そんなニコラは「あーほんとにムカつく! 私が誰だか分かってんの?」と、ぶつぶつ言いながらダイニングテーブルにディスプレイやキーボードの城塞を組み立て始めた。
ケーブルなんて繋げなくてもインターネットは使えるし、ディスプレイやキーボードだってVR空間に自由に配置できるから、こうやって現実にデバイスがたくさん並んでいる光景はなかなか見慣れない。前にニコラにそんな話をしたことがあったけど、自分の視覚や聴覚を攻撃対象領域に置くなんてリスクが高すぎると言っていた。
彼女を囲むディスプレイが一斉に青い壁紙の光を放つのに合わせて、ニコラがキーボードから短いコマンドをいくつか入力し始める。そして、彼女が「反撃」と表現する一連の作戦――おそらく実際は過剰防衛にあたるような――を開始した。
「ライラも飲む? ちょっと長い夜になりそうだから」
ニコラは冷蔵庫でよく冷えた黒い缶入りのエナジードリンクを取り出して、その半分ほどを喉に流し込むと、残りを勢いよく机に置いた。そして、この小さな缶から少しずつ栄養を摂取できるように、上から細いストローを投げ込む。私は最大処方の「黒缶」を飲むと気分が悪くなるから、もう一段階弱い「赤缶」を飲むことにした。
とはいえ、私はニコラの作戦に協力できるようなスキルもない。なんとなくドリンクを飲んでみたはいいものの、私にできるのは寝ずに彼女を見守ることくらいだろう。向かい合わせになっていたダイニングチェアをニコラの側に移動して、彼女がディスプレイ上で展開していく作戦を眺め始めた。
ここからはニコラの説明をそのまま横流しにする。――今はダークネットで切り売りされたボットネットから攻撃を受けていて、実際の攻撃元が分からないので、適当な
彼女は先ほどまで感情のままに恨み言を並べていたのと打って変わって、一言も発さず作業に集中している。素早い指さばきに合わせて響く小気味よい打鍵音に耳を集中させると、冷蔵庫の低い動作音やデバイスのファンが回る音までよく聞こえた。
静かな時間が流れている。ディスプレイに顔を近づけて青い光に照らされているニコラの様子を見ていると、改めて現実に戻ってきた安心感が奇妙な懐かしさと共にこみ上げてきた。
「ニコラ、あなたがいてくれて助かったわ」
「……私はいつも通り、自由にやってるだけだよ。悪いのはライラを騙したガキなんだし」
ニコラはこちらに顔を向けずにそう答える。彼女の視線に合わせてディスプレイに目を戻すと、白黒の解析ログが上から下へとめまぐるしく流れていくのに合わせて、攻撃の傾向がダッシュボードに表示されていく。
ぐんぐん更新されていくカラフルなグラフはまだしも、ディスプレイで細かい文字を読むのは苦手だ。こういう物理ディスプレイで見るのはテレビ番組やアニメばかりだから、難しいニュースを延々流されているような気分になる。もちろんそれは優秀な睡眠導入剤として、私を曖昧で隙だらけの世界に誘っていった。
「でも、ニコラがいなかったら、私死んじゃってたかも」
「それはさっきのVRの話でしょ。まだ混乱してるの?」
「違うわ。私がワールドから戻ってきたとき、ニコラを見てここが私の家だって思ったの。だから、私――」
「ホームカメラ、繋がった! さて、ライラを騙したのはどんな変態かな……」
次に私が目を開けたのは、ニコラがそう叫んで嬉しそうに両手を挙げる瞬間だった。
古いOSのバージョンと脆弱性の話を聞いていたところまでは、なんとか覚えている。そこから、ニコラと何を話したんだっけ。テーブルから身体を起こした私は、ディスプレイに表示された攻撃元のグラフがすっかり落ち着いているのに気付き、それから私がかなり長い時間眠っていたことに思い至った。
「……うーっ。ニコラ、ごめん。寝ちゃってた」
「あ、ライラ。 敵 の本拠地に
ニコラは私が眠っていたことは既に気にしていない様子で、見えない敵に反撃を食らわせた興奮を丸ごと伝えようと、早口に身振り手振りで大忙しだ。私もどうにかそれに応えようと、眠い目を擦りながらその映像に視線を向けた。ディスプレイにはわずかにブロックノイズの乗ったいかにもウェブカメラっぽい映像が流れていて、サーバールームやオフィスのような空間ではなく、目の前で誰かが生活を送っている住居だと分かる。
ぼんやりした頭で部屋の中を一つ一つ確認していくと、布団や毛布が広がる床、その上に捨てられた日用品――その瞬間、私の意識を押さえ込んでいたしぶとい眠気はすっかり吹き飛んでいった。
「ニコラ! 私、さっきここにいたわ! 見て、この灰色のクッション。同じ物がアキラの部屋にもあったの」
アキラが愛用していたもこもこの丸いクッションに、確かに見覚えがあったからだ。
しかし、地下室のような閉塞感を放っていたはずの壁には、なぜか森の中に建つシンデレラ城を映したテレウィンドウらしきデバイスが設置されている。設定が狂って歪んでいるように見えた壁は、今思えば見慣れたAIディスプレイの曲率とぴったり同じだった。
そして、カメラの真ん中に映っているのは、サイズの合わない毛玉だらけのパジャマでのろのろと布団を這う――アキラと同い年くらいの――傷だらけの女の子だ。顔には殴られたようなあざができていて、パジャマにも血がにじんでいるように見える。きっと布で隠された腕や脚にも、たくさんの傷が残っているだろう。
「でも、この子はアキラと全然違う。パジャマはもっと新しかったし、髪ももっと明るくて……」
何より、こんなにみすぼらしくなかった。そう口にするのはなぜか憚られた。髪はところどころ色が脱け落ち、黒と金のバイカラーと表現すれば聞こえはいいが、単にカラー剤が上手く塗れていないだけだ。元はもっと綺麗な黒髪だったのだろう。もちろん、メタ世界上のアバターは現実世界の姿を反映するものではないけれど、まるで生き別れた双子の姫と孤児を見ているようで心が痛い。
画面の向こうの アキラ は、どんな気持ちであのアバターを着ていたのだろう。この髪は、 アキラ 自身が染めたのだろうか。もし、そうだとしたら。
「じゃあ、ここを攻撃したのは、ハッキングが大好きな天才女子小学生ってこと? 随分やつれてるみたいだけど」
「でも……アキラ、助けてって言ってた。きっと、アキラの『パパ』が仕返しに来たのよ」
「『パパ』って、この子を吹き飛ばした ゴースト だよね?」
そうだ。あの時、アキラの
「やっぱり、この子はアキラよ。私が見ていたのは、ずっと現実だったんだわ」
現実世界の動きをメタ世界に映す手段はいくらでもある。私のように専用の定点カメラで動きを追跡したり、あるいは全身に慣性センサーを装着して、アバターの動作として出力すればいいだけだ。現実のアキラが吹き飛ばされる動きさえも精巧に反映していたのだとしたら、あの見えない力の説明もつく。
しかし、まだ少しの疑問が残る。私が開けた引き出し、アキラに渡した飲み物や食べ物は、現実世界ではどう映っていたのだろう。彼女はずっと私とメタ世界で おままごと をしていて、お腹が空いたまま私と遊んでいたのか。それにしては、アキラの反応はあまりにも自然で素直なものだった。
いずれにせよ、アキラはまともな状況に置かれていないはずだ。彼女のような小学生がヘッドセットを装着し続けるのは大きな負担になるだろうし、そもそもあれほどの暴力を振るわれている状態なのは言うまでもない。それに、彼女は確かに「ライラ、私を助けて」と言った。あの地獄から、救ってと。
「ねぇ、ニコラ。私、アキラを助けに行きたい。ニコラだって、やられっぱなしじゃ嫌でしょ?」
「私は別に、この映像で脅してモネロ4でも巻き上げればスッキリするんだけど……まぁ、いいか。協力するよ」
もし「パパ」が本当にアキラの父親なら、私たちは堂々と未成年者の誘拐計画を立てる犯罪者だ。それでも、あんな野良猫の巣みたいな場所に閉じ込められて、手ひどい虐待を受けるアキラを放っておくことはできなかった。彼女を見て見ぬ振りすることの方が、何か重大な罪に問われるような心地がした。
自分の正義のためなら犯罪も厭わないなんて、ニコラと過ごすうちに私も変わってきたのかしら。
「……ありがとう、ニコラ」
それでも、ニコラが共犯になってくれるなら別にいいかな、と思った。
私はすぐにでもアキラを助けに行きたかったけど、住所の解析と作戦の準備に二日はかかるというニコラの主張を尊重して……というよりはむしろ、彼女の情報がなければ目的地さえ分からないので、アキラの身の安全を願いながら待つしかなかった。
そして、作戦当日。ニコラが「作戦」のために借りたという黒い小さなSUVには、トランクはもちろん後部座席まで大量の荷物が積まれていた。その多くはニコラの持っているデバイス――ディスプレイ、サーバー、その他ネットワーク機器、ケーブル類――で、彼女がここに越してきたときと同じように毛布で丁寧に保護され、小さなサプライ品はまとめてプラ製の収納ボックスに詰められている。
レンタカーなんて借りるお金がどこから出てきたのかと尋ねてみたら、先日の調査で踏み台にしたボットネットの
ニコラの主張によれば、トレース――彼女がしたような攻撃元を分析する活動に成功しているなら、向こうも私たちの居場所を知っているかもしれないという。おちおち部屋にいれば身体に直接的な脅威が、そうでなくても腹いせで盗難や損壊なりの被害を受ける危険性が高まっていた。
ニコラに「無くなったら困るものは全部積んでおかなきゃ」と促されるまま、私もVR用のヘッドセットやセンサーを梱包してトランクの隅に積んでいた。もともと少なめの荷物で越してきた身だったから、一緒に載せた数日分の旅行セットも合わせると、なんだか行き先も無計画な引っ越しを始めたような気分になる。
「準備できたわ、ニコラ」
「じゃあ、そろそろ出発するね」
帰宅ラッシュのピークを過ぎる頃、私たちは目立たないように家を離れた。服装は夜に紛れる黒を基調としつつ、怪しい忍者のような黒装束には見えないギリギリのラインを保つ。それでも、ニコラと並んでポーズを決めるといかにも闇を駆ける悪役コンビのようで、姿見の前で思わず緊張が解けて二人でしばらく笑い合っていた。
ニコラの運転で幹線道路を北へ。目的地まではたっぷり四時間ほどかかるらしい。途中で運転を交代しながら進むことになりそうだ。『パパ』がいない隙を突いて侵入する必要があるから、あまり悠長に休憩している暇はないだろう。
ライブカメラに映った部屋の間取りとテレウィンドウを手がかりに分析を進めたところ、アキラの部屋は私たちと同じような
こんなユニークな形の住宅が全国にいくつもあるなんて私は知らなかったけど、ニコラはIPアドレスからおおよその地域が分かった途端にこの場所を候補に挙げていた。家賃と電気代の安さのおかげで、エンジニア界隈では有名な建築スタイルなのかもしれない。
アキラの住む
近くの団地の駐車場に車を停めて、そこからアキラの部屋に向かう。たくさんの人が集まる場所なら、誰かに見られても記憶に残りにくいらしい。木を隠すなら森の中、といったところか。駐車場を出て、右、左、もう一度右へ。地方都市の郊外にある住宅街の夜はただ静かで、ここには誰も住んでいないのかもしれないという錯覚すら覚える。
「もう住宅内に踏み台は置いてあるから、『パパ』さえ来なければ首尾よく進むはず」
足音を抑えて私の先を歩いていたニコラが、立ち止まってそう小声で告げながら前を指差す。彼女はこちらを見ていなかったけど、自分に言い聞かせるように力強く頷いた。目的地の建物は私たちにとっては見慣れた大きな円盤型で、既に作戦を首尾よく終えて帰宅の途についているような錯覚さえ覚える。
事前に確認した航空写真を見ても、やはり中心に銀色のドームが嵌まっていた。エントランスのセキュリティモジュールも、私たちの住宅と全く同じ型番らしい。同時期に、同じ計画の下で建てられたことを示しているのか。それにしては場所が離れすぎている気がするものの、これがこの二棟だけではなく北から南まで全国に広がる光景なら、少しは納得がいくかもしれない。
わざわざ家賃を下げざるを得ない個性的な間取りにこだわる理由はよく分からないけど。
ニコラはバックドアを経由してものの数秒でロックを解除すると、ついでに監視カメラの映像記録を
「ここにアキラがいるんだよね。早く助けないと」
「でも、アキラちゃんが本当にライラと話していたのかは、まだ分からないよ」
「それは……アキラの存在自体が罠かもしれないってこと? 今さらそんなこと――」
本当のアキラを見つける前に可能性の一つとして想定していた、ワールド自体が撒き餌の標的型攻撃という仮説。弱々しいアキラの姿を見てからはすっかり忘れていた考えだけど、例えば侵入を見越して偽の監視カメラを設置していたなら……私たちは敵の思惑通りに罠に飛び込んでいることになる。
私がどうしてもアキラを助けたいという気持ちはニコラも分かっているはずで、しかしアキラ自体が虚構なら、この気持ちが向かうべき場所はなくなってしまう。私にも自信を持ってアキラの存在を主張できるほどの根拠はなかった。それを認めるのが怖くて、ひたすら前に進もうとしていたのだ。
「――でも、うん。最悪の事態は想定しなきゃね」
周囲を確認しながら廊下を進む。今は侵入者を捕捉できないだろう監視カメラの位置と角度は、私たちから見れば薄暗い視界の中でもよく分かった。もちろん、ここに「イーグル」はいない。全く知らない場所の見慣れた景色の一つ一つを見ていると、まるで異世界を訪ね歩いているようで不思議な気持ちになる。
隅々から伝わる見知らぬ雰囲気が、私の身体を冷たくした。
「この部屋だね。ここから先は、ライラがお願い」
「えぇ、大丈夫。打ち合わせたとおり、ちゃんとできるわ」
階段をいくつか上ってさらに半周ほど。バックドアからの数秒のロック解除に合わせてこの扉を開ければ、
ニコラの操作を待つほんの十秒ほどの沈黙が、数分にも数時間にも感じられる。その緊張に耐えかねて「ねぇ」「うん」と短いやり取りを交わした瞬間に、わずかな電子音と共にロックが外された。すかさずカチャン、というドアノブを回す音を響かせて、部屋の中を覗き見る。
予定通り、少し遅れて中の住人から反応が返ってきた。
「だ、だれ……? イヴ?」
「アキラ、私よ。ライラよ」
「ライラ……ライラなの? 本当に、来てくれたの?」
ゆっくりと廊下から出てきた少女は、先日ライブカメラに映っていた 本物の アキラだった。古びて汚れたパジャマに身を包む小さな女の子。胸にあの古びた灰色のクッションを抱えている。顔には大きなあざが残り、髪はところどころ無理やり金色に染められて痛々しい。それでも、確かにあのワールドで見たアキラと同じ子だと直感で分かった。
「助けに来たわ。一緒に外へ行きましょ」
「ラ、ライラ……でも、私……」
アキラは私が差し出した手をじっ、と見るばかりで一歩も前に進めずにいた。ワールドにいたときと同じように渋るアキラの手を握ると、すべすべで柔らかいあたたかさが伝わってくる。冷たくて少し震える私の手には熱いくらい。私が助ける側のはずなのに、直接触れるその熱に勇気づけられていた。
今なら、きっといける。そのまま彼女の手を引こうとすると、突然廊下の奥の暗闇から野太い声が響いてきた。
「おい、お前ら! 何をしてる!」
思わず身体が震える。すぐに分かった。この声は「パパ」のものだ。あの日と同じ。アキラを薙ぎ払った姿が見えない存在。判別の付かない怒鳴り声と共に廊下の奥からドスドスと乱暴な足音が聞こえて、あぁ、この世界では肉体があるんだ……と目の前の緊急事態には似合わない発見に一瞬思考を奪われたものの、慌てて首を振ってもう一度状況を確かめる。
「ニコラ、『パパ』は今部屋にいなかったんじゃ……」
「そうだよ……そうだったはず。カメラの映像にはいなかった!」
「お前らが見ていたのは、俺がいない昨日の映像さ。こんな簡単なトリックも使えないと思ったのか?」
やっぱり、罠だった。ここに「パパ」がいるのはまずい。警察に通報されればもう逃げられないし、私たちには彼に抵抗できるほどの力もなかった。とにかく、直接対峙することはないように計画していたはずなのに。
ニコラは小声で「ここはいったん退こう」と一歩後ろに下がった。確かに、私たちだけではどうしようもない。無茶な特攻で捕まってしまえば、アキラを助ける機会は二度となくなってしまう。今逃げておかなければ、彼女はまた、現実世界とメタ世界の境界で「パパ」に閉じ込められて長い時間を過ごすのだ。
仕方ない……と、アキラに差し伸べようとしていた手を退いて逃げだそうとした、その時。
「……お、おい! なんだ! 離せ、イヴ!」
声が後ろへ遠ざかり、不規則に壁や床にごつごつと何かがぶつかる音が響く。「パパ」と、もう一人誰か――イヴ、そうだ、イヴと呼ばれていた。「パパ」と「イヴ」の二人がもみ合いになって、暗闇の中で攻防を続けている。大きな家具に身体がぶつかったのか、あるいは椅子でも振り回して応戦しているのか、素手で殴り合うには低く鈍い音が繰り返し聞こえてくる。
そして、やがて二人は倒れ込んでテレディスプレイにぶつかったらしく、ガチャンとガラスが割れる大きな音が響いた。
「何が起きたの?」
「分かんない。カメラは古い映像だし。でも……これはマズいかも」
それから一瞬の沈黙が流れた後、部屋の奥から急に青白い光が漏れ出てくる。初めはまるで強い光を放つスライムのような液体が染み出て空間を照らしていたけれど、今度はそこからレーザーのような鋭い光を不規則に飛ばしながらどんどん床を覆っていく。このまま人や獣の姿に形を変えて立ち上がるのではないかと思えるほどに、奇妙で神秘的な光景だった。
自分の部屋でニコラと取っ組み合いのケンカなんてしたことがなかったし、窓に物をぶつけたことさえ一度もない。そもそも、ちょっとした衝撃で割れるような素材ではなかったはずだ。あの分厚い保護ガラスの向こうには、こんな珍しい新素材が詰まっていたなんて。
ニコラもさぞテレディスプレイの液晶材料の素性が気になっているだろう……と思いながら彼女を見やると、青い光に照らされた顔がみるみる強ばっていくのが分かった。
「すごくきれい……これが、 外 の光なの……?」
「……やっぱり、マズい! ライラ、急いで離れて! アキラちゃんも!」
そう叫んだニコラは私たちの答えを待たずに、廊下を走って最寄りの階段を転げ落ちるように降りていく。走っている間も「早く!」「急いで!」と叫んでいるあたり、よほどの緊急事態なのが分かる。私はアキラの顔を見て頷くと、彼女は「分かったわ!」と言って私の手を握った。
廊下が青白くて冷たい光に包まれていくのを背中で感じる。このスライムの正体は分からないけど、どうやら安全な物質ではないらしい。アキラがこの光に触れないように、手の中で脈打つ熱を奪われないように、私は一心不乱にアキラの手を引いて前に進んだ。
ニコラに遅れて十秒ほど。エントランスを飛び出した私たちの後ろを指差すニコラに合わせて振り向くと、住宅全体がアキラの部屋で見た青白いスライムに包まれている。空間を切り裂くような鋭い光はだんだん強くなり、ついに視認できないほどの光量になったかと思うと、ドカンッと大きな音を立てて弾け飛んだ。
「ラ、ライラ……私のおうち、どこへいったの?」
アキラはどうにか不安を抑えようと、胸に抱えた大事なクッションを強く抱きしめていた。走っている間もどうにか手放さずに済んだらしい。まるで火事から逃げてきたような状況だけど、目の前にはもはや残骸の欠片さえ残っていなかった。
「分からないわ。でも、私たちは何も……ね、ねぇ、ニコラ。何がどうなってるの?」
「最悪。あの ゴースト 、全部引っかき回して消滅しちゃった」
そうして
私たちは、激しい音と光のせいで衆目を集めつつあった事故現場からとにかく離れるために、できるだけ目立たない山道ルートで車を進めた。途中で何台か峠越えする車とすれ違ったけど、助手席で対向車に集中する私でさえ、もうどんな車種が走っていたかほとんど思い出せない。きっと向こうもそうだろうと祈る。
ニコラの計画によれば、「パパ」に見つかってしまったときのプランB、そして住宅が爆発に巻き込まれたときのプランCの準備があり、今は運悪くプランCを元に逃走ルートを確保しているらしい。爆発、というのは正体不明のスライムが建物を飲み込んで弾け飛んだあの現象を指しているのだろう。
すると、ニコラは既にこの爆発について計画に組み込むレベルで把握していたということになる。しかし、いくら用意周到なニコラでも、これほどの威力を持つ爆弾を個人で用意できるとは思えない。それに、大量の光と音を放って建物を丸ごと消し去るなんて、隠密に進める作戦のバックアップとしては大ざっぱすぎるだろう。
もちろん、それは「パパ」自身にも同じことが言える。こんな大がかりな装置は準備できないだろうし、自身を犠牲にしてまで反撃する意味もない。つまり、これは誰の制御下にもなかった不運な事故だったというわけか。
やっとの思いで連れ出したアキラは、その小さな身体を後部座席の荷物の隙間に収めて静かに寝息を立てている。今警察に見つかったらどうやっても言い逃れできないだろう。出発直後は珍しそうに外を眺めて、たまに出てくるコンビニやファミレスの光を愛おしそうに見つめていたけど、暗い山道に入ってからは退屈したのかいつの間にか眠っていた。
「まだ検問は張られてないみたい。報道の火消しを優先してるっぽいね」
周囲の状況を確認しながら慎重に進むニコラ。どんなピンチでも落ち着き払って作戦を進める彼女の冷静さには、ここまでずっと助けられてきた。しかし、私たちにも馴染みのある
「ちょっと、ニコラ」
「どうしたの? 帰り道のナビはもう送ってあるよ」
「そうじゃなくて。あの爆発、いったいなんだったの?」
アキラを起こさないように小声でニコラを問い詰める。彼女は「えーとね……」と、煮え切らない様子でしばらく考え込んでいたけど、道路沿いに現れた展望台を兼ねた無料駐車場を見つけると、迷わず車を停めてエンジンを切った。そして、とうとうこちらに視線を向けて重い口を開く。
「……ライラ、
「急にどうしたのよ。壁が曲がってて、窓がない特殊な部屋だからじゃないの?」
「ライラ。壁や窓がちょっと変ってだけで、こんなに安くはならないでしょ」
私の言葉を聞いたニコラは、ここぞとばかりに大きなため息をつく。間取りが家賃には関係ない、ですって? あの物件の紹介を受けたときは、特殊な間取りで人気がないから値引きしているんです、と確かに言っていたはずだ。その説明はニコラも聞いていたはずなのに。
「どういう意味よ?」
「
「欠陥って? 私、何も聞いてないわ」
「物件屋は嘘つきだからねぇ。ライラも自分でちゃんと調べなきゃ」
それから、彼女は淡々と
私たちが 中庭 と呼んでいた場所は、もともと地下に謎の超高エネルギー物質が滞留する特殊なエリアだったらしい。この物質は光を放つスライムのような姿で、放っておくとあらゆる物体を包んで爆発させてしまう危険性があった。宅地開発を進める開発業者が運悪くその鉱脈を掘り当ててしまったことで、
このエネルギー物質は、物体を完全に包まない限りは決して爆発しない性質があった。つまり、内壁がなめらかで十分に頑丈なタンクに閉じ込めておけば、投入する小球核の量で出力を制御しつつ、ほぼ無限にエネルギーを取り出せるらしい。
「金属のシールドに包んで、その外側にテレウィンドウを貼り付けたら、エネルギー湧き放題で 安心安全な タンクのできあがり。爆発と隣り合わせだから家賃は安いし、電気だって自給自足。まさに夢のクリーンハウスって感じ」
要するに、地価の高い住宅街のど真ん中を活用しないのは割に合わないから、住居と防火壁を兼ねた緩衝地帯を作って少しでも収入を得ようとしたわけだ。なんて悪魔のような発想だろう。そんな部屋に説明もなく私を……そして、アキラのような少女を住まわせるなんて。
もちろん、爆発と隣り合わせと言っても、これまで
「でも、テレウィンドウを破って、シールドにほんの少しだけ傷を付ければ簡単にその 夢 は崩れちゃう」
テレウィンドウを突き抜けるような衝撃を起こせば、圧力の均衡が崩れて飛び出したスライムがあらゆる物体を包んで大爆発してしまう。先ほど私たちが目の当たりにしたのは、防火壁――アキラの住居でもあった――がその役割を果たした瞬間というわけだ。
「ねぇ、ライラ。と……ニコラ、さん」
と、ニコラの声で目を覚ましてしまったのか、アキラが眠そうな声で私たちの名前を呼んだ。車はまだ駐車場から動いていない。もう少しで山を越えて、隣町の中心地に差し掛かろうとしていた。もしかしたら、目の前でわずかに光を放つ市街地の夜景に反応したのかもしれない。明日からはこんな時間に起こさないようにしないと。
「どうしたの、アキラ? ごめんね、うるさかった?」
「違うの。ライラは……ずっとこんな暗い場所に住んでるの? パパが、外はずっと真っ暗で怖い場所だって言ってたわ」
思わずニコラと顔を見合わせる。アキラはこれまで外に出たことはおろか、太陽の光を見たこともないらしい。彼女はこの世界に来る朝さえ知らずに、ずっとあの小さな部屋に閉じ込められて生きてきたというのか。
頭によぎったのは、やはりずっと単なるゲームの設定だと思っていた 神官 の依頼のことだ。アキラを救って外に連れ出してほしい。光を見せてほしい。これはワールドにいたあの 姫 ではなく、小さな身体で大きな負担を受け続けてきたアキラ自身のための言葉だったのだ。
「……ちゃんとこの世界にも朝が来るわ。本物の光を見せてあげるから、待っててね」
「そうなのね! うれしい……でも、それなら、イヴにも見せてあげたかったわ」
「イヴって、アキラの家にいたお手伝いさん?」
「そうよ。とっても優秀なロボットだったの。さっきもパパが乱暴しないように、押さえていたのよ」
イヴが、ロボット? てっきり、「パパ」が雇った人間のメイドか何かだと思っていた。しかし、イヴが自律して動くロボットだとしたら、大の男を制圧するほどの力があるのも納得がいく。おそらく「パパ」の隙を突いてアキラが外に抜け出さないよう昼夜問わず監視して、異常を知らせるよう設定されていたのだろう。
しかし、なぜか誤動作を起こして「パパ」を拘束、バランスを崩してテレウィンドウを……いや、あれは誤動作なんかじゃない! 彼女は私と同じ気持ちだったんだ。ずっと心を痛めていたに違いない。あの日、虐待を受けるアキラを見て自分に任された仕事に疑問を持った
「ねぇ、アキラちゃん。イヴなんだけど、AIのデータならたぶんクラウドに――」
「でも、私、イヴがいなくなっても寂しくないわ。だって、ライラが来てくれたんだもの!」
アキラが後部座席から身を乗り出して、ニコラを遮る大きな声で私たちの間に飛び込んだ。彼女はこちらをじっと見つめてから、ぐいと私の手を取る。アキラの手は小さくて、あたたかくて、すべすべだ。幼さを隠せない小さくて頼りない手なのに、今なら私をどこまでも引っ張っていってくれそうな気がした。
「ライラってね、おててが柔らかくって、ひんやりしてるのよ。声もかわいくってすてき!」
「……ライラ、すごく愛されてるみたいだね。ルームシェアは今日でおしまい?」
「冗談やめてよ。私、あなたとの暮らしを結構気に入っているんだから」
「私も、ライラと過ごす時間がすごく楽しいよ。アキラちゃんも、きっとすぐ馴染むね」
それから、ニコラはそろそろ出発の時間だね、と言ってこの先の移動ルートを設定し始めた。初めての朝が待ち遠しいアキラは、朝日まで起きていられるだろうか。彼女の小さな身体をやさしく包む太陽の光に、その熱に、きっと彼女はびっくりするだろう。
車が走り出す。綺麗な星々を散りばめた夜空が、ずっと向こうの山際から瑠璃色に染まっていく。夜明けはもうすぐだった。