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百合よ、さようなら

かつて、百合は驚きと輝きをもって私を迎えてくれました。

それからやや経って、百合に対する大げさな「概念言葉」とでも言うべき表現が広まる様子を眺めながら、「百合」とは何なのかと考える機会がありました。そして、シスジェンダー女性同士の関係にこだわる無意味さについて言及を続け、いつの間にか飽きていました。あそこで行われているのは、無批判な受容と無意味な連帯、あとは論理にくるんだお気持ち表明ばかりです。

今のところ、百合は、見ている限りでは「シスジェンダー女性同士の関係を描いたもの」のようです。少なくとも性自認への言及はないですし、トランスジェンダーに対しても、おそらくそうです。女装キャラクターが関係の一端を担っていれば、性自認やその推移に対する言及なく必ず排斥されています。ただし、女装キャラクターが参加する百合を認める一派の中にも、性自認に対して言及している人はいないように見えます。

「百合ではない」物語に「百合ベクトル」とでも呼ぶべき方向から光を当てる(これは二次創作寄りの発言ですね)ことが百合の楽しみだと表現する人もいます。それはおそらく正しい。ただ、そういう個人の取り組みを、出版社や本屋が一丸となって推進し、それ以外の要素を捨ててまとめるのが正しいのかは僕には分かりません。

百合から解放せよというのは過激であるにせよ、「百合」の中の作品を適切なサブジャンルに分ける試みはあまり重要視されていないような気がします。ジャンルではなくタグを付けられたら便利そうという仲谷先生の発言に気を留めている人はそんなに多くない様子でした。

「百合の本質」とでもいうものが関係の性別に宿るのだとすれば、お互いの性別にこだわってそれ以外を排斥する異性愛規範とそう変わるところはないのです。我々が百合の対極に置くべきなのは異性愛規範であって、異性愛ではないと思っています。「禁断の愛」や「百合以上の関係」という文言が前提としているのは「異性愛規範」であり「異性愛」ではありません。あなたが異性愛そのものが嫌いだというならば、同性同士の関係とは何が違うのか教えてほしい。

この流れで言ってしまうと、異性愛規範に依った異性愛が性欲や恋愛関係に流れやすいというのも、そんなに間違ったことを言っているとは思えない。これに対する反論が、異性愛規範という概念を知らない人間によって行われているように見えてならない。

百合が恋愛の程度を示す軸1本で書き切れるなら、おそらく百合は恋愛モノの一派なのでしょう。自分が寄り添うジャンルについて、アンチの存在に定義を委ねているとしたら、それは最も笑われるべき定義でしょう。あなた方が関係を構成するキャラクターの身体的性別や性器の形質にこだわり続けながら、なおも大げさな表現で百合の本質や真理と言ったものに言及する限り、それは性欲の婉曲表現にしかならないでしょう(それでいいというなら、それでよかったです)。「あなたが好き」だという事実を「定義」だと勘違いしているのならば、それを意識するだけでするべきことはおしまいです。

こんな話をしても、僕はまたシスジェンダー女性の関係を扱うのでしょう。ただ、それが百合の全てではないことを意識しながら。そもそもこれは、シスジェンダー女性同士の関係を描くことを否定する論理ではないのですから。

実は、百合の定義に言及することは何ら必要な活動ではないのです。本当は、個別の作品を個別に楽しめばよい。百合の定義に割くエネルギーもないままに、誰かが使う百合の定義を無批判に受け入れて無を語る人間に飽き飽きしてしまった。

僕は単に、最初に得た驚きと輝きを捨てたくはなかったのです。そして、みなさんが「百合の本質」と呼んでいる何かを見つめるための舞台を作りたかったのでしょう。結局僕も、寄り添っていきたかったのです。

百合は僕を人間にはしてくれませんでした。でも、ありがとう、百合。ありがとう、世界。

P.S. 「物語に自分が入らないという保証」が百合周辺以外でそんなに重要視されていないことは今回知った。