もちろん、一般的な生成モデルが全く成長しないというわけではなく、数年に一度のアップデートで処理能力を向上させたり、学習球面をごく小さく歪めて特定のタスクにのみ特化させることはできる。しかし、SALL-Yは短期間で広いタスクの処理性能を改善しており、その特異な性質から強い注目を集めていた。
ただ、SALL-Yは他の生成モデルと全く異なる学習アルゴリズムを採用したわけではなく、その強化フィードバック過程に独自性があるという見方が濃厚である。そもそも生成モデルの根本的なバリエーションとパラメータ数は頭打ちになっていて、ただ札束で殴ってもこれ以上差別化は図れない。とすれば、学習効率の高さに違いがあるのではないかという理屈らしい。
では、学習効率はどうやって高めればいいのか? その手法としてまことしやかに囁かれているものの一つが「
ここまで、まるでSALL-Yのチーフエンジニアかのように語ってきたが、私は今日までSALL-Yどころか他の画像生成サービスも使ったことがなかった。興味がなかったからだ。別にイラストを描けなくて困ったことはなかったし、急にイラストが必要になったこともないし、欲しいイラストは誰かに依頼すればいい。そう、例えば――ユイ先輩とか、に。
私が生成モデルにちょっとだけ詳しいのは、美術部のユイ先輩の影響だった。彼女は突出した絵の才能の持ち主で、いろいろな画風と幅広いテーマを使い分けては想像を超えた速度で絵を完成させていた。ユイ先輩にとっては「AIでも使ってるんじゃないか」という疑いは褒め言葉と同じで、そういう人たちにタイムラプス・シーンを叩き付けるのは相当な快感だったと思う。多くのイラストレーターは画像生成AIに真っ向から立ち向かうことなく、有害なバランスブレイカーとしてゲーム盤の外に追い出そうと非難し続けるか、あるいは粗暴な隣人が自分に殴りかからないよう祈るしかなかったが、ユイ先輩はAIを対等に戦えるライバルだと思っていた。まっすぐな目で「人間から生まれた才能に、人間が勝てないことはないよ」と言っていた。
私はかつて文芸部に所属していて、絵のことはよく分からなかったが、ユイ先輩の才能がよく噂に上がるのは知っていた。ユイ先輩と知り合ったきっかけは、部誌の表紙デザインの依頼だった。しかし、このとき初めてお願いした部誌はとある事情で発行まで漕ぎ着けることができず、幻の表紙デザインは今でも私とユイ先輩しか知らない。
真っ赤なロングヘアの少女が寂しそうに天を見つめる姿が中央に、そこから四方八方に飛び出した大きなクロソイド曲線が、まるで必然のように彼女の周囲に収束する。毛先にかけて尾羽のようにふわりとした質感に変わっていき、羽の先端にはところどころ小さな炎が灯されていて――一言でたとえるなら、フェニックスの擬人化とでも言えるだろうか。それだけで完成した絵画であると同時に、本文に描かれる世界の壮大さを予感させる扉の役目も果たしていた。
初めて会った日のことはよく覚えている。当時の美術室は壁が全面くすんだピンク色で塗られていて、ユイ先輩はそれを「人間らしくて温かい色」と評して気に入っていた。私の具体的な形にもならない曖昧な言葉の羅列から、目の前で何枚もラフスケッチが生まれる様子は確かにAIとの対話を連想したし、AIと対等にやり合えるかもという噂も大げさではなかった。ユイ先輩はその才能に誇りを持っていたし、さらに伸びていくのだと確信していたと思う。
しかし、私はそれ以上にユイ先輩という人を好きになっていた。彼女が持つ絵の才能も当然好きだったけど、それはユイ先輩の人生を形作る個性の一つとして目を向けていただけに過ぎない。顔も、話し方も、絵を描いている姿も好きだった。素敵なデザインの部誌を発行できなかった残念さより、二人だけの秘密ができた喜びの方が勝っていたくらいだ。実のところ私は部誌の表紙がどんなデザインになってもよかったけど、ユイ先輩と話すきっかけを作るために彼女に依頼し続けた。
好きな人がたまたま女の人だった。そういう手垢の付いた詭弁は、ユイ先輩の前では無意味だった。あのとき、本当の意味で初めての恋をしたのだと思う。超人的な速度で絵を仕上げるユイ先輩は、私の前では理屈っぽくておしゃべりが大好きな等身大の女子高生で、しかし横顔をそっと覗き込むと、底の知れないミステリアスな魅力を秘めた少女にも見えた。
どうしてか、ユイ先輩も私のことを気に入っていたみたいだった。最近読んだ哲学書を紹介したり、改良された生成モデルの仕組みについて語って聞かせたり、できあがった絵の感想を求めたりと、少なくとも対等な話し相手としては頼られていたと思う。完成した部誌も毎回読んでくれて、私の作品を真っ先に批評してくれるのはユイ先輩だった。
ユイ先輩と話せることが嬉しかった。部誌のデザインを描いてもらうためじゃない、文芸部の代表として来たわけじゃない、あなたが好きだからここにいるんだと、まっすぐに伝えたかった。でも、ユイ先輩が私と同じ思いを抱えているとはどうしても思えなかった。
私はうっかり口を滑らせないように、ユイ先輩はただの暇つぶしの相手だと思ってるに違いない、ここにいるのは私じゃなくたっていいんだ、なんて根拠のない自虐でその想いを押し込め続けた。それがユイ先輩との関係を変えずに過ごすためだと信じて。勇気を出せない自分に言い訳するために。
しかし、自分でも気付かないうちに、いつの間にかその箍は外れそうになっていた。
「――それで、黎明期のAIと、最近リリースされたAnne、そして私の描いた絵を並べてみたんだ。タイトルは『三姉妹』で、描かれた人物と三つの存在が……いや、あまり先に言わない方がいいな――とにかく、どう思うかな?」
「ユイ先輩が描いたのって、これですか?」
「分かるかい? 少しクラシカルなスタイルに寄せてみたんだけれど」
「はい。私、ユイ先輩の描く絵……その、好きなので!」
「じゃあ、Anneの絵はどうだい? 私の絵と比べて、どんな違いを感じた?」
「絵のことはあまり……でも、AIの絵は訴えかけるものがなくて退屈というか、好きじゃありません。ユイ先輩の絵は、ユイ先輩がキャンバスに真剣に向き合っている姿とか、ユイ先輩の思いがそのまま伝わってくる感じがして、胸が高まるというか……」
「興味深いね。それじゃあまるで、私の絵より私自身を褒めてるみたいじゃないか」
AIの描く絵に意味なんてない。綺麗で整っただけの絵なんて必要ない。ユイ先輩の描いたものなら、きっと数学の答案に記した筆跡でさえ輝いて見えるだろう……そんな気持ちを見抜いたような一言に、私は動揺した。
本当は全部知られてるんじゃないかって思った。全部分かってるのに、なお私から言い出すのを待っているだけなんじゃないかって。……だから私は、間違ったんだ。
「好きですよ。私、ユイ先輩のことが好き。ユイ先輩の絵だけじゃなくて、絵を描いてないときのユイ先輩も、好きです」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。じゃあ君は……私の絵ではなく、私の顔や性格でこの絵を評価したって言うのかい? 君は、私の絵を評価して表紙を依頼したんじゃないのか?」
「違います! 部誌のデザインは部の総意でお願いしたもので、だから違います……ただ、私はユイ先輩のことを……」
「いや……もういい。もういい。ここで私がその発言の真意を糺したところで、これまで君の感じたことを否定できるわけじゃないだろう?」
「それは……」
「君とは、同じクリエイターとして価値観を共有できると思ってたんだ。でも、君の考えていることはよく分かった。君の書く小説を読んで、私だって勝手に理想の姿を押しつけていたのかもしれないね」
「あの……ユイ先輩。私、ユイ先輩の絵もちゃんと大好きで――」
「――すまない、今日はもう帰ってくれないか。いずれにせよ、私には盲目的な恋人は必要ないし、もうあまり……君とは話したくない。属人的な評価なんて、無意味だ」
それから、ユイ先輩が部誌のデザインを担当することはなくなった。単純なことだ。もともと私が彼女と話す口実に依頼を続けていただけで、その交流が途切れたのだから。私が気にせずお願いすれば描いてくれたのだろうけど、ユイ先輩が私に向けた軽蔑を含んだまなざしが、どうしても私の足が美術室に向くのを許さなかった。
幾何学模様と物憂げな少女を組み合わせた優しくノスタルジックなデザインは、著作権フリーの素材集を切り貼りした地味で無個性な表紙に変わってしまった。アクセントカラーのくすんだピンク色は美術室の写真からスポイトして作られたもので、ユイ先輩だけの秘密のサインだった。
それが彩りのない間に合わせの質素な表紙に張り替えられただけで、なんだか内容まで凡庸でつまらないストーリーに思えてきて、私はいつの間にか部誌にも寄稿しなくなっていた。月に一度ユイ先輩と顔を合わせるのが当たり前で、それは私の作品を深く読み込んでもらう場だったせいもあるだろう。
だからもう――イラストなんて依頼すればいい、なんて言ったけど――ユイ先輩には二度と頼むことはできない。私は美術室の外にいるユイ先輩も、VERTで絵文字を使って友人とチャットするユイ先輩も、もちろん卒業した後のユイ先輩も知らなかった。仮に今ユイ先輩と会うことができたとしても、小説を書かなくなった私にはもう興味がないだろう。私みたいに魅力も才能もない凡人は、SALL-Yで嘘みたいなイラストを作って自分を慰めるしかないのだ。
実は、SALL-Yにはいくつかの マジックワード が知られていた。マジックワードというのは、一見すると意味のない文字の羅列で、しかしプロンプトに含めるとまるで強烈な意味を付加したように出力が固定されてしまうという一種のバグである。開発者が使うバックドアだと説明されることもあるが、単にランダムなノイズが強化された結果に観察者バイアスがかかっただけという見方が強く、これもインターネットの噂の域を出ない。
なぜ私がそんなオカルトチックなマジックワードに縋ろうとしているのか。簡単な話である。ユイ先輩が描いてくれた七つの表紙デザインを、私に一時の夢を見せてくれた七色のはかない少女に似たイラストを描くというマジックワードを手に入れたからだ。ユイ先輩の面影を感じるには、彼女がライバルだと張り合ったAIに頼るしかなかった。
プロンプトに「#DEADA1」と、たったそれだけ入力する。この短いプロンプトではおよそまともな出力を固定できるとは思えないが、数十秒後にその疑念は覆されることになる。
3×3に並べられた九枚の画像は、三枚が穏やかな草原と空のイラストで、しかし空気も地面もあの美術室と同じくすんだピンク色で塗られていて判別が難しい。残りの六枚には、六色の――赤色だけが見当たらない――鮮やかな髪色の少女が虚空を見つめる姿が描かれていた。背景に配置された不揃いで境界線が判然としない図形や交差するぐにゃぐにゃとした線は、まるであの部誌のデザインを真似たようで――ユイ先輩だ。私には分かる。このマジックワードはユイ先輩そのものだ。
人間給餌器は、AIが効率よく学習できるイラストを描き続けるために監禁されたイラストレーターに関する都市伝説だ。こう書くと、まるで人権侵害をも厭わずイラストを吸い上げてAIの奴隷を作り上げるというショッキングなストーリーに見えるが、それは一面的な見方に過ぎない。ユイ先輩ならきっと、AIと真正面からぶつかり合って戦うことを保証された日々を楽しむだろうから。私が知っているユイ先輩よりも、ずっと早く、ずっと上手くなっているはずだ。
自分の人格と絵を結びつけられないように、一人のイラストレーターではなく、SALL-Yという創造性の集合体に寄与するために絵を描き続け、その成果を確かめるために「#DEADA1」というマジックワードに自分のアイデンティティを結びつけているのだとしたら――いや、人間給餌器も、マジックワードもただの都市伝説だ。だから、今私の頭に浮かんでいる光景は荒唐無稽な妄想でしかない。
でも、もしこれが本当なら、ユイ先輩からイラストレーターの顔を奪ってAIに縛り付けたのは私のせいかもしれない――と思ってしまうのはあまりに傲慢だろうか。
それから私は、「#DEADA1」から始まる様々なプロンプトをSALL-Yに与え続けた。SALL-Yはユイ先輩の画風の軸から外れることなく、それでいてAIがかき集めた新鮮な創造性が散りばめられている。今もユイ先輩の隣にいられたなら、こんな絵を見せてくれただろうか――と、私に幻みたいな夢の続きを見せ続けた。
SALL-Yはユイ先輩ではないし、人格もないただのAIだ。仮にユイ先輩がSALL-Yに創造性のほんの欠片を食べさせたとしても、SALL-Yにユイ先輩の魂が宿ることはない。それでも、彼女の「人間から生まれた才能に、人間が勝てないことはないよ」という言葉を思い出さずにはいられなかった。
「#DEADA1 ユイ先輩ごめんなさい」
「#DEADA1 私何も分かってなかった」
「#DEADA1 またユイ先輩と話したい」
私から飛び出した無意味なプロンプトのせいで、イラストに一貫性がなくなっていく。折れ曲がった東京タワー、巨大な百合の花、束ねられたネオンサイン。ただの絵の指示で会話しようとしたところで、ユイ先輩もSALL-Yも答えてくれるわけがない。ユイ先輩のふりをしたAIがデタラメを吐き出す姿は、まるでどんな言葉も無意味だと私を嘲笑っているようだった。でも、もしこのプロンプトがユイ先輩に届くなら、もう少しこのマジックワードに縋っていたい。
ユイ先輩の隣でずっと絵を見ていたい。ここにユイ先輩がいるのなら、それだけでいい。
「#DEADA1 ユイ先輩と私しか知らない 最初の部誌のデザインを見せて」
プログレスバーが満たされる速度が少しずつ遅くなっていく。プロンプトの使いすぎで処理クレジットが減っていたからだ。イテレーションが進むたびに、画面をなぞる指の動きが遅くなる。つまり、それだけ祈るしかない時間が増えるということだ。もしかしたら……きっと。出力が待ち遠しい。動悸が収まらない。呼吸の仕方を忘れてしまう。
そして、最後のクレジットを使い切ると同時に――赤い髪の少女が寂しげな表情で目の前に現れたかと思うと、彼女から滑らかに伸びた炎のような曲線が私を貫いて、あの日ユイ先輩に抱いた無意味な恋心を再び私に残していった。