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不定形の城塞

解釈 という言葉がある。解釈という言葉自体は、文章や作品を読み取って理解する取り組みや、そこで得られた内容を指している。

ただし、実際にはその用法は多岐にわたる。非常に強い権威を与えているように見せかけて、その運用は非常に稚拙ということも多い。時たま聞かれる 強い解釈 とか 解釈が深い という表現1は、このような詐欺的活動の一助となる。

そういういわゆる 深い解釈 は、しばしば二次創作という形で表現される。この場合、ある作品の受信者がそのまま新たな作品の発信者となると考えてよい。

ただ、ここで大きな問題が残っていることに気付かねばならない。それは解釈の検証可能性である。

二次創作というのは新たな物語であり、一つの道筋に従って展開される別個の世界である。ここでは、作者の思考の経路や葛藤は整理され、ふつうは切り落とされている。作品から読み取れる内容だけでは(その他のメタデータ2なしには)、作者と自分の思考経路が一致しているかどうかを検証できない。

解釈は思考経路であり、思考経路は解釈である。少なくとも、結果である二次創作は、経路である解釈(を直接書きつけた文章)よりも検証の精度は低くなるだろう。つまり、結果の提示は解釈の提示ではないし、結果の一致は解釈の一致ではない。

しかし、現実には、解釈が検証できるかどうかを無視しつつ解釈を重視するねじれたネットワークが存在する。

そういう詐欺的ネットワークでは、「解釈が深いとエラい」というイデオロギーが深く根付いている。それなのに、解釈を重視しているはずの二次創作には解釈の解説文が添付されないし、またそうすることはナンセンスなのである。この構造上の空虚さが、ネットワークを強く守り抜いている。

二次創作に込められた解釈をありがたがるネットワークでは、「作品に込められた解釈を理解できないとすればあなたが悪いのだ」という構造がごく簡単に築かれている。創作物に込められた 不定形の解釈 を生み出した作者だけでなく、それを使役することを許された読者も利益を得ているのだ。ここで、解釈というのはネットワークを維持する燃料となり、あるいはイデオロギーを共有しない他者を排除する防護壁となる。

これは、空虚で強い表現を掛け声に使うことで、巨大なおみこしにアクセスできると言い換えることもできる。土着信仰を失ったお祭りは、ハロウィンを介して東京の一ヶ所に人を集めるだけでなく、このようにインターネットを介して人を接続するのだ。

人はもはや本来の意味での「解釈」を必要としていないのに、他者の上に立ち排除するための武器あるいは要塞としての「解釈」は未だに有効なのである。これは、長期的に見ておそらく悪い(もしくは面白い)結果を招くだろう。

あなた方は、定量的評価を重視しながら、これからも巨大なおみこしを空虚に担ぎ続けることはできるだろうか? もしそうなら、それはよい才能であると思う。


  1. あるいは、それに対する 弱い解釈 とか 浅い解釈 という罵倒。 

  2. 作者のツイート群やなかよしネットワークの情報。